お塩の製造や供給が 国家の重要な役割の一つであることは
古代から現代に至るまで同じです |
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◎揚浜法の出現 |
藻塩は上記の如く優秀な塩で、優秀な国民を造ったが、
製塩には藻塩草を必要とし、国民の増加とともに藻塩の不足を来たしていた。
この時、神功皇后による三韓征伐が起り、
従軍の兵士が、三韓の塩の製造法を習得して帰り、塩釜の地で試験し成功した。
この方法が日本中に伝播した。この塩田法は揚浜塩田法と言う。
この方法の大略は、海辺の波浪の害の無い地を整地して、
水の洩れないよう、粘土分のある土を敷詰め、その上に細砂を撒布し、
その砂に、海水を汲んで撤潮し、天日で砂を乾燥し、撤潮、
この作業を繰り返し、砂に塩分を付着せしめ、
この砂を沼井(瀘過器)に入れ、海水又は藻垂で鹹砂を洗い、
濃厚な鹹水を作り、これを土釜に入れて焚いて塩を造った。
この方法は藻塩草がいらず、砂と海水で晴天には多量に塩を造る事が出来た。
この方法は明治三○年頃迄、能登半島の飯田大谷地方に行われた。
しかし出来た塩は塩化曹連八○%苦汁分の多い塩で、
藻塩のように海水のエッセンスやヨード、加里分等が少なかった。
「これに悪貨は良貨を駆逐する」というが、揚浜塩田が藻塩を追放した。
そして苦汁分の害が日本人を害し、腎臓を痛め頭脳を悪くし、
一、人生百年が人生五○年の時代に突入した。
二、武士道の意地というが意地の強い、
主君の為には悪事でも平気でやるようになった。
三、頭脳力が弱くなり、創意工夫力を失い、体格が六尺位となった。
揚浜塩田法の塩は苦汁の為苦く安価で、庶民には使用されたが、
支配者階級は藻塩を高くとも使った。
したがって、仁徳天皇迄は長生の歴史を作り、
又東北方面は藻塩草が多く、藻塩法が長く行われ、
歴史では、この人達蝦夷は中央に逆いて反乱を起こした。
当時の武士八幡太郎義家は六尺位であったが、
阿部貞任は、九尺五寸、貞任は六尺五寸で
蝦夷は武士達より勇猛であった事がわかる。
応神天皇は、伊豆国より貢れる枯野と言う大船を、不用になったので、
揚浜塩田の薪として塩を造らせた。
役人達はその余った船材を天皇に奉った処、天皇は琴に作らせた。
その音が非常に良く、遠くヘ聞こえたので、歌を読まれた。
「枯野を、塩に焼き、その余り、琴に作り、掻き弾くや、由良の門の、
門中の岩礁に、振れ立つ、浸漬の木の、さやさや」
本法は豊臣秀吉の朝鮮征伐まで行われた。
この慶長迄の日本人は、フランシスコザピエルの記述によると
「日本人は牛鳥羊豚を食せず、体格雄大にして礼儀正しさ国民である云々」
当時の日本人は六尺有余の人々が多かった。
これは当時の土釜では、鹹水漏洩にカキ灰を使った関係で、
塩の中に石灰分が多かった為だと考えられる。
反面、昔の芝居などには、せっかくの仇討にも、
せきが起こって苦しむ劇で観客の涙を誘ったものだが、
これは石灰分過剰で結石が生じた為だと考えられる。
しかし、この苦汁分の害に対し僧侶等が味噌醤油などを考案して、
塩中の苦汁を味噌の豆、糀等の作用で、化合せしめ、苦汁の害を防いだが、
これらは高価で、金持ちや権力者階級には愛用せられ、
上流階級の人達や僧は苦汁分の無いミネラルのある味噌醤油等で、
良い頭脳力で立派な芸術品も数々造られた時代でもあった。
しかし庶民は苦汁分の害で、殆ど腎臓病で早熟早老、
特に飢饉年には、終戦後の粗悪塩が出廻りたように、
粗悪塩が出廻って食事情の悪い庶民達に栄養失調症を起させた。
この人達を餓鬼と呼び、
柳田国男氏の著書では飢饉が度々起り、その度に餓鬼が道に溢れたと書いてある。
この餓鬼の霊は人に取付き不幸を招くというので、
今日も仏教ではお施餓鬼の法要をして彼らの霊を供養する行事をやっている。 |
◎入浜塩田法の出現
豊臣秀吉の朝鮮征伐は、日本ヘ色々の産業上の進歩を招来している。
陶器磁器の製造その他色々あるが、入浜揚田法もその一つであった。
昭和17年宮城県東名塩業株式会社で私が初めて流下式塩田を築造した廃止塩田は、
百余町の広さがあって、朝鮮征伐直後山口県の武士奈良孫太夫が、
伊達改宗公の招きで、一族を連れて、
東名で入浜塩田を大規模に造りた碑やその子孫が現存していた。
入浜塩田も山口県式を下流と言い、仙台式を上流と唱えた。
慶長以前の揚浜塩田は、製塩用海水は全部人力で汲み揚げ運んだが、
その労力は大変であった。
入浜塩田法は塩田を海面より低く造り、製塩用海水は、自然力で塩田へ導入し、
毛管作用を促進する撤潮位が人力で、
鹹砂洗じょう用海水、並びに鹹水も自然輸送迄発達したが、流下式塩田には敗退した。
入浜塩田は鹹水の大量製産に成功し、その煎ごう法も大改善が行われ、
丸い土釜は、大型の石釜にかかわり、竃も赤穂流と称する、立体式の竃も出現した。
問題は食塩の質であるが、鹹水の漏洩の少ない石釜となるとカキ灰を極く少量使用し、
塩化曹達七〇%以上で苦汁分の多い食塩が出廻り、
国民に及ぼした影響は、終戦以前迄下記の現象が見られた。
一、日本人の体格が五尺そこそこの貧弱となった。
二、日本人の死亡原因は、苦汁の害で腎臓を傷められ、
終戦以前迄は腎臓病が第一であ った。
しかし苦汁分中にあるミネラルの働きにより、小児マヒは非常に少なかった。
なお早熟早老の現象があって明治以前では娘は二○才以下で嫁に行き、
六〇才位では大変な老人であった。
三、苦汁分の為に腎臓が傷むと共に脳の血管も害を受け、意地の強い国民となった。
主君に忠義、親分への仁義、すなわち事の善悪のかかわらず、
主君や親分の命に従う。
明治の金色夜又、一人の女に振られて何年間も失恋の思いで金の鬼となる。
西洋の学者は「肉食民族には創意工夫力があるが菜食民族には無い」と
批評したが菜食が創意工夫を失わせたのでは無く、
当時の食塩に含まれた苦汁分の為す害であった。
◎真空式煎ごう、流下式塩田の出現
終戦後、機械製塩の完備で、一等塩、精製塩、上質塩と、
日本の塩は、苦汁分の無い上質塩が出現した。
したがって日本人に異常な現象が起った。
一.創意工夫力のある頭の良い国民の出現
終戦後の日本工業界の大発展は、苦汁分の害から免がれ、
創意工夫力のある頭の良い日本人が出現したのが原因と考えられる。
ただし、日本人の食塩は醤油、味噌漬物類を通じて摂る、
この内醤油を通じて塩を食う場合が多い。
しかし醤油業者は、以上の理論を忘れて、
苦汁分の多い不潔な外塩を醤油に使用しようとしているが、
これは日本人のせっかくの良い頭脳を悪くする恐るべき悪事である。
二、国民の平均寿命が延び晩婚となる
国民の平均寿命は終戦以前の四二年六か月を遥かに突破して七○年近く迄延びた。
そのかわり晩婚となった。
娘の結婚年令も二〇才以上、
明治、大正初年のように結婚が二〇才以下などは少なくなった。
しかし醤油に外塩の使用を許可すれば、
苦汁の害のため三〜四年の内に、
15・16才の性的犯罪が猛然と起る事が考えらえる。
三、成人病が多くなる現象が起きた。
現在の国民死亡原因も、終戦前の苦汁分の為に起る腎臓病第一位が転落して、
ミネラル不足に基く、成人病が猛然として第一位第二位を占めようとしている。
これは苦汁分の無い岩塩を食った西洋人がかかった岩塩病と同質であって、
上質塩にもミネラルが無い為に起ると考えられる。
四、国民体位の向上
終戦以前の学者も医者も「文化が進む程、体が小さくなる」など放言していたが、
今日の青少年の成長振りは食塩の質が如何に大切なのを物語つている。
しかし上質塩中にミネラルが無いので、背だけに延び、堂々たる体格になれない。
以上により近頃の医者は
「終戦前と現在とは国民の病気の性質が変った。何故だろう」と
不審にしているが
食塩の性質が大変化している事に気がつかないのは試に残念である。
◎食用最適塩追録
今日の日本の発展は、単に戦後の復興だ位の解釈では納得出来ない何物かが伺われる。
その実態を研究すると日本歴史上かって見ない大革命が起きて居る事が判明する。
日本の歴史家、学者、医者もこの実態を知り、感じ乍ら、
何がこの革命を起したかの原因を探求出来ないため沈黙しているが、
私は多年の体験と研究によって大革命の実態、革命の実態、
革命を起した原因を解明出来たと同時に、国民は右の理論を知らないため、
現在すでに恐れるべき国民病が多発しつつあり、
更に憂うべきは国民の脳カの低下、
延いてはせっかくの良き革命も変じて暗黒時代を迎える一歩前であるので、
あえて本研究を国民へ訴え、
正しい理論に基き、偉大なる日本民族の出現に資したいと希望する。
◎革命の実態並に革命を起した原因
大革命が起きている実証を一言で言えば徳川三百年間の発展と、
どちらが良く発展して居るか?と問われたら
当然終戦後二十年の方が良く発展していると答えると思う。
この実証を大革命と申さずして何であろう、
真の革命は「平和時に起る」、その実証を解剖して列挙して見ると
1、日本産業界特に工業界の大発展
2、意地にとらわれない国民の出現
3、国民の平均寿命の延長
4、国民の体位の向上
5、国民の病気の大変化
以上の様に分類出来る。これを総合すると
一、産業界の発展、並に意地の国民が、
理論尊重の国民に変った事は国民の頭脳カの進歩向上を物語る。
二、平均寿命の延長、体位の向上病気の種類の変化は国民の体質の変化を示す。
今回の大革命は、各国によくある、敗戦後の復興、例えば西ドイツに伺われる。
祖国復興と言う、精神力の発露等は、日本では毛頭認められないのが特徴、
従つて本革命は頭脳ばかりでなく、本質上に於ても、
戦前と戦後に大変化が認められる。
世にはこの原因を、新薬の出現、栄養の向上、運動の振興、等が原因だと、
説明しようとした人が居たが、いずれも当を得ない為立消えとなって居る。
右の結論から判断出来るのは、戦前と戦後、国民の食生活上、
食物中の何物よつて居ると考えられる。
私の長年の研究に基いて申せる事は、日本の革命を起した原因は食物にある、
その食物は学者も医者も気が付かない、食塩の質の大変化である。
と確信出来るのである。
◎驚くべき食塩の人体に及ぼす影響
食塩が革命を起した原因だと申し上げると、驚かれる人が多いと思われる。
世界中の学者も医者も気が付かぬ事実だが、
仏教の聖典法華経には、「総在如来寿命海中」の聖句がある。
「総て如来の寿命は海中にあり」
これは雨が陸地を洗い、陸上の大切なミネラルは洗い流されて海中にある。
これを回収して食べなければ、健康体となれず、生き乍ら仏(如来)にはなれぬと解する。
科学的に申し上げると、
海水中には塩分並に百余種のミネラル、ヨード、海水の酵素
及び人体に有害な苦汁分を含んで居る。
だから右の内害のある苦汁分を除いたちのを食塩として食べると、
仏となれるが、折角のミネラルの無い塩や、又は有害な苦汁分の多い塩を食ペると、
人体の生理が損なわれ健康体となれず、
如何に仏法を修行しても仏となれない時代が続く、これを末法の世と言う、
と解される。歴史的に見て食塩の害は次の通り
一、純度の高い食塩の害
外国には岩塩が産出、岩塩は苦汁分は無いが、
海水中にのみあるミネラル、ヨード、海水の酵素が無い為、
岩塩病(私が命名)に患り小児マヒ、成人病、肥満病、若禿、若白髪等の諸病を起し、
精神病者迄多発する。これは西洋諸国で17世紀迄この病気で苦しんだ。
海から作りた塩でも余り濃度を高めると、岩塩に似て右の病気が起る。
二、苦汁分のある塩の害
岩塩の産出の無い東亜の諸国では、海水から塩を作るが、
製造技術が拙く苦汁分の15%以上含んだ塩を食べた。
苦汁分は人体内の蛋白質と結合し、体内諸器官を損し、腎臓を痛め、
早熟早老、意地の強い、創意工夫を失った國民を造る。
終戦前までの日本人は15%以上の苦汁分のある塩を千年以上も食い続けた。
これに模倣性早熟早老、意地の悪い、文明とは緑が遠い国民が生れた。
然し苦汁中に、ミネラル、ヨード、海水の酵素があつたので、
小児マヒ、成人病、肥満病、若禿、若白髪等の諸病は非常に少なく、
腎臓病で国民は早死した。
三、食用最適塩出現時代
以上の理論より当然苦汁分の無い塩で、
ミネラル、ヨード、酵素を含んだ食塩、
即ち食用最適塩が出現する時代が考えられる。
法華経の予言では世界最終戦の後、
日本より聖王出現して真の世界平和の道を打建てるとあるが、
私の解釈では、聖王一人では無理で、
聖王を補佐する優秀な日本民族の出現が必至であり、
即ち良い塩を食べた吾等の子孫を、
一、百才以上長命せしめ成人病の無い健康に溢れる国民
二、六尺以上の堂々たる体格の日本人の出現
三、知能明敏創意工夫カのある日本人
右の国民の出現が予想される。又当然生れさせねばならぬ、と思う。
◎終戦後の革命の経運
以上簡単に食塩を議明したが、右の理論が判れば次の事が了解出来ると思う
終戦前迄の日本人は苦汁分15%程度の塩を食い、
苦汁の害で、早熟早老、意地の強い、創意工夫が無く、模倣性の国民で、
国民の平均寿命は四二年程度、腎臓病が死亡原因の第一であった。
終戦後五年頃より、専売公社の指導宜敷きを得て真空式製塩が普及し、
次で流下式塩田の完成と相俟って
日本歴史上かって無かった苦汁分の少ない精製塩が出廻り、
国民は苦汁の害より解放された。
これに腎臓病は急減し、苦汁の害で弱って居た頭脳は活き返り、
創意工夫力の復活、意地の強い性質、私は意地とは軽い頭脳の栄養失調と解するが、
理論尊重の国民性となり、これに産業界の大発展が生れ、
腎臓病の激減と共に、老人が長生きする様になり、
体位の向上等の好ましい変動が起きたが、
これに苦汁分を塩中より披き去った上質塩や、塩化曹達九九%の食塩が出廻り、
ミネラル、ヨード、酵素の無い岩塩同様の塩が国民に供給され、
岩塩の害、小児マヒ、ガン、成人病、肥満病、若禿若白髪等の諸病が
次第に多発して来て居る。
昨年は小学生迄が肥満病に患りマスコミに騒がれたが、
本年は若禿若白髪がマスコミの話題となる公算が大である。
なお黒髪を誇った日本人も、
岩塩を食う民族と同様の赤褐色の髪となる事も遠い事で無い。
国民の髪は食べる塩の質で金髪、銀髪、赤褐色、黒髪、罷髪となる事も推論出来る、
恐るべきは西洋で岩塩病の末期症状たる頭脳混乱者の出現が、
日本に迫って居る事実を至急に予防する必要がある。
釜が崎騒動、学生のデモ等々、政治力では防止出来ぬ、
ミネラルを含んだ良い塩の供給が唯一の解決策であり、
成人病の予防も同時に出来る事がお判りと思う。
◎食物によって革命が起きた実例
終戦後の革命に似た革命が、18世紀に西洋で起った事例がある。
17世紀迄岩塩を食べ海水中にあるミネラル、ヨード、酵素が皆無の為、
西洋諸国民は岩塩病で悩み、体力健康力弱く、暗黒時代が続いたが、
18世紀に入るや西洋歴史上有名な産業革命が起きた。
その内容は17世紀迄西洋では、菜食論肉食論が相争って居たが、
肉食論が実績を示したので本格的な肉食が採用された。
この状況を日本に帰化した文豪小泉八雲先生の説を引用すると、
「18八世紀に入るや世界を揺り動かす思想や文明が起こった。
この原因はハムにベーコン、羊豚肉、
之を促進するに強いエール(酒)熱いコーヒーであった。」
私は肉食を研究して次の結論を得ている。
牛馬羊豚は岩塩中に少ないミネラルを牧草中より摂取し、体内に貯えて居る。
これが陸上動物の生理である。
従って之等の肉を食べると、食塩中に無いミネラルが人体内に補給され、
人体内の生理が順調に行われ、健康を回復し、
岩塩病が緩和頭脳が良くなり、産業革命が起きたと解せられる。
終戦後の日本の革命は食塩中の苦汁分の害から免がれた事より起こり、
今日ではミネラルの無い食塩の為岩塩病に患り、
暗黒時代に突入しようとして居る。
速に食用最適塩を国民へ供給し国民を救わねばならぬ事がお判りと思う。
私が戦後の日本に大革命が起きていると申し上げても、
科学的に説明を要求されると思うので、その大略を次の如く申し上げる。
1.日本産業界特に工業界の大発展
昭和四二年10月8日の大阪読売紙では
「第三の超大国」日本と題し、英国週刊紙エコノミスト九月三〇日号で、
「将来米ソに次ぐ大国となる国は、統一欧州とか、中國ではなく、
おそらく日本だろう」と指摘して居るという。
日本人には戦前の神怒り的な考え方は禁物であるが、
英国人の批評は傾聴すべきものがある。
私は産業界の発展は表面的現象で、
事実は日本民族に創意工夫カの復活が真相と確信して居る。
戦前迄西洋の学者は
「肉食民族には創意工夫カがあるが、菜食民族には皆無だ」と評せられた。
日本民族に対しては「模倣性の巧な国民だ」と有難くない刻印を押されて居た。
事実日本史上に見らるる通り、
日本文化とは、
「印度、支那、朝鮮、西洋文化の焼直しだ」と評せられても反論が出なかった。