秋月辰一郎博士は、
「とにかく粗塩を舐めろ。
食事は塩辛い味噌汁、
醤油を摂れ」
夕張の石炭の上に乗った「大夕張のキリ助」 |
過去の広島や長崎の前列から、(死の同心円 長崎被爆医師の記録)
砂糖類摂らない。 水分控える。 塩を努めて摂る。
海藻、味噌、玄米。 玄米にすり黒胡麻塩。
放射能は体を冷やす極陰性、自然治癒力が働く温める陽性の食を
そして放射能を排出する働きの食をできるだけ努めて摂る。
塩をたっぷり食べることは公害自衛法
これだけ公害物質が多い時代では、公害物質を全く食べないでは済ませません。
体に入った毒を少しでも早く出すのが公害自衛法です。
塩は新陳代謝を活発にして老廃物を体内に滞らさないように
汗と小便(塩水)などで出そう、バランスをとろうとするようになっています。
元気であるためには塩分が体の中を常に循環通過して出て行くのが
正しい生理、健康法です。有害重金属類は尿には出ません、汗から出ます。
塩が切れたら体温が上がりにくく、汗も出にくくなりますから
有害金属類が出てきません。
放射能時代は、誰も彼も免疫が落ちて、病気にかかりやすくなる 飯山一郎氏より
○本物の耐放射能人間になるためには
病気にならないヒト=耐放射能人間=新日本人になろう!と。耐放射能人間になるための条件は、
乳酸菌と空気清浄機とじつは、もうひとつ大切な要件がある。それは 「出来るかぎり食べない! 少食・粗食に徹する!」と
いう生活をしなければならない! ということだ。
空腹は、ほんと、つらい!「食べないと病気になる!」と
いう常識もあるし、美食・飽食の時代を楽しんできた身体と
心が我慢を許さない。 食え! と。
しかし、「出来るかぎり食べない! 少食・粗食に徹する!」
という食生活に切り替えないと、本物の耐放射能人間には、絶対になれない!
群馬県から遥か鹿児島の志布志まで避難してきた家族がいる.
「6才と4才の男の子の体内被曝だけは絶対に避けたかった!」
という.賢明である.当然の避難行動(サバイバル)である.
二人の男の子に,トロロ昆布や,ちりめんジャコ(小魚)をだした.
すると,ガツガツとむさぼるように食べるのだ.驚異的な食欲だ.
育ちざかり.子供達は,毎日,筋肉,臓器,血管,骨…,全身が
伸び,育ち,大きくなる.とくにカルシウムは,絶対必須元素だ.
いま,関東平野の大気中に舞っているセシウムやストロンチウム
は,必須元素のカルシウムに化学的に似た性質を持つため,骨
や筋肉に取り込まれ,長期間にわたって残留する.
だから,育ちざかりの乳幼児・子供は,絶対に!内部被曝を避け
なければならないのだ.
それを,政府とマスコミは「心配ない!」を連呼し,多くの子供たち
の避難機会を奪った.まさしく!亡国の犯罪行為である.詳細はこちらから
●秋月辰一郎 プロフィール
1916年〜2005年。長崎市万才町生まれ。1940年、京大医学部卒業。
長崎医大病院放射線科に入局。結核専門の高原病院へ移籍。
長崎に原爆か投下された1945年には、神学校から派生した
「大東亜布教財団 浦上第一病院」医長。'52年に聖フランシスコ病院医長、'86年顧問。
爆心地から1.4kmで被爆、医師として被爆者の治療に当る一方、
永年に渡り被爆者の証言の収集を行った。
吉川英治文化賞、ローマ法王庁の聖シルベステル勲章、他。著書に長崎原爆記、死の同心円。
---死の同心円 長崎被爆医師の記録 秋月辰一郎著 昭和47年発刊 講談社---
長崎に原爆が投下された時、爆心地に在りました聖フランシスコ病院医長であった
秋月辰一郎博士は、突然に啓示を受けたように、
「とにかく粗塩を舐めろ。食事は塩辛い味噌汁、醤油を摂れ」と
病院関係者に命じました。
秋月博士は、「放射線宿酔」と呼ばれます当時のレントゲン撮影を受けたあとに
起こることがある全身の倦怠感の症状には
体験上から生理食塩水より少し多めの塩分を含んだ水を飲みますと、
じきに回復することを思いついたそうです。
その後、この命令を守った職員だけは、被曝の後遺症が出なかった記録があります。
この当時の粗塩・味噌・醤油は、もちろん海水塩から製造されたものでした・・・・
長崎原爆記〜被爆医師の証言 秋月辰一郎著(日本ブックエース)
119〜121ページ 秋月式治療法
X線の診断治療を研究した時に、
「レントゲン宿酔(しゅくすい)」という症状があった。
子宮癌、乳癌の転移巣X線深部治療をする。
1日、2日と連続して照射すると、患者は一種の病的症状を起こす。
これは「レントゲン宿酔」(レントゲン・カーター)と呼んでいた。
レントゲン放射線は、古典的物理学の言い方をすれば、
波長のきわめて短い電磁波である。人間の細胞を透過する。
しかしラジウム放射線と同じく、多量であれば人間の細胞を破壊する。
レントゲン放射線に破壊される細胞は、分裂が盛んに行われる組織細胞である。
幼弱細胞(ようじゃく)、生殖細胞、骨髄細胞―
とにかく生命現象の営みの盛んな細胞は、レントゲン放射線によって壊死する。
かつて私は、レントゲン教室で患者がカーターになったり、
自分がカーターに苦しんだとき食塩水を飲んでいた。
生理的食塩水より少しよけいに塩分を含んだ飲用を患者にも命じた。
そうすると私自身、気分がよくなった。
それは当時、レントゲン教室で研究し、働いていた人びとの常識であった。
秋月式栄養学=ミネラル栄養学である。
この時のミネラル栄養論を端的に表現するならば、
食塩、ナトリウムイオンは造血細胞に賦活力を与えるもの、
砂糖は造血細胞毒素ということになる。
この原爆症にも私のミネラル栄養論がそのまま役立つのではないか。
私の胸中に信念にも似たものが湧然とわいてきた。
「玄米飯に塩をつけて握るんだ。からい、濃い味噌汁を、毎日たべるんだ。
砂糖は絶対にいかんぞ。」私は、炊事方や職員に厳命した。
もしそれが履行されないと、私は、気の毒なくらい相手を怒鳴った。
「砂糖はいかん、甘いものはいかん!」
これは爆弾前から、入院患者や従業員に厳重に申し渡していた。
注意:食塩
現在の食塩と昭和20年代の食塩では表示義務が事なり、
自然塩を著者は摂取していたのではないかと思われます。
門馬先生も食塩や食卓塩ではなく自然の海の塩や岩塩をすすめています。
死の同心円 長崎被爆医師の記録 秋月辰一郎著より抜粋 リンク元
死の同心円 長崎被爆医師の記録 秋月辰一郎著より抜粋
「死の同心円だ・・・・・・・。魔の同心円だ」長崎市の地図を頭に描きながら、
私は思わずそうつぶやかずにはいられなかった。
まさに死の同心円が毎日少しずつ広がってゆく。
きょうはあの線までの人が死んだ。
翌日はその家より百メートル上の人が死ぬだろうと思っていると、はたして的中する爆心地から広がりはじめた魔の波紋は、
日一日と軽傷や無傷の人までを蝕んでいったのである。
「病院まではまだ距離があるが・・・・・」しだいに広がる円周に
恐れ慄き(おののき)ながら、私は毎日のように近くの人々を集めて
髪の毛をひっぱった。「どうだ、まだ髪の毛は抜けないか」婦長も看護婦も患者も、首を振って不安とも安心ともつかない表情を見せた。
当時私たちはみな、多かれ少なかれ悪心があった。疲労感が強く、下痢便をした。
しかし、病院の人々は、お互いにそれをかくしていた。
石川神父はもちろん、岩永修道士、野口神学生、白浜、松田、植木の諸君も、
私も、河野君も、みなそうであった。婦長も村井看護婦もそうだった。
私はそれを知っていた。
だからみんなの髪を引っぱってみては、「まだ大丈夫だ」と一安心するのである。
しかし、死の同心円は丘の下から病院の方に向かってじょじょではあるが、
確実にのぼってくる。
(略)九月上旬から中旬にかけて、死はいよいよ病院に向かって、
津波が押し寄せるようにあがってきた。
「あしたは自分が死ぬかもしれない」という不安が私たちの胸をしめつけた。
職員はお互いに下痢便、歯ぐきからの出血をまだ秘密にしている。
病院で被爆し、病院付近で労働をつづけてきた肉体が、
どれだけ放射能によって侵されているか見当もつかない。
八月も二十五日をすぎたころから、焼けただれて残った木の葉が、
夕陽や朝の雲に硫酸銅のような異常な濃緑に映えて見えた。気味の悪い緑だった。
しかし、このことは私以外に記憶がない。
そして、いよいよ病院も死の同心円に包まれる時期にさしかかった。
往診に行ったり、その辺を歩きまわったりすると、
被爆直後とはちがう激しい疲労をおぼえ、悪心と下痢に悩まされた。
「えらく疲れるな」私はいうと、野口神学生も蒼い顔でうなずいた。
死の灰の恐怖は、これまで奮闘してきた病院の職員たちにも
遠慮なく襲いかかってきたのである。
軽重の差こそあれ、全員が悪心と血便と、耐えがたい疲労感に喘ぎはじめた。
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その1)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その2)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その3)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その4)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その5)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その6)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その7)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その8)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その9)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その10)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その11)
P130からP173までを一部抜粋
四章 しのびよる悪魔の手
■ふしぎなアルコール療法
被爆以来、全身火傷やガラス創などの治療に専念してきた私は、
八月十三日ごろから新しい疾病に直面した。
あとになって、原爆症と呼ばれるものである。
それは十六日をすぎると、にわかに数を増し、数日中に症状が悪化して、
バタバタ死んでゆく。
患者の年齢や抵抗力の強弱によって、死までの時間に多少のズレがあるが、
ハッキリいえることは、爆心地からの距離に比例して照射量に大小があり、
それが激症、中等度症、弱症の区別をつけていることであった。
つまり、木尾町、橋口町、浦上天主堂付近、上野町の人々は激症で、
本原町一丁目付近がそれにつぎ、爆心地からの同心円の直径が伸びるにしたがって
弱症になっていくことがわかった。
弱症の人たちは、一週問ほどのあいだに、じょじょに症状があらわれて死んだ。
血球計算器もなく、血球を染色して顕微鏡で見る装置もない。
リンゲル注射も、輸血療法もできない。
私は想像と推理によってこれを「レントゲン・カーター」に似たものと断定し、
私がそれに苦しめられたとき、よく食塩水を飲んだことを思い出した。
レントゲン・カーターの患者に、
生理的食塩水より少し多く塩分を含んだ水を飲ませることは、
レントゲン教室で働いている者の常識であった。
私には原子生物学の知識はなかったが、
「爆弾をうけた人には塩がいい。玄米飯にうんと塩をつけてにぎるんだ。
塩からい味噌汁をつくって毎日食べさせろ。そして、甘いものを避けろ。
砂糖は絶対にいかんぞ」と主張し、職員に命じて強引に実行させた。
それは、私か信奉しているミネラル栄養論とも一致する考え方であった。
私は石塚左玄氏の桜沢式食養学を学び、自分なりに工夫して食養医学をつくり、
みずから秋月式栄養論と名づけた。
この考え方に立てば、食塩のナトリウムイオンは造血細胞に賦活力を与えるが、
砂糖は造血細胞に対する毒素である。
同じ野菜でも、カボチャはいいが、ナスはよくないということになる。
浦上第一病院の患者と職員に、こうして私のミネラル栄養論を実践したが、
ついでに死の灰がいっぱい付着したカボチャもずいぶん食べさせてしまった。
せっせと味噌汁に入れて食べたので、二次放射能で腸をやられたかもしれない。
もっとも、味噌の解毒作用によって、プラスマイナス・ゼロになったと考えられる。原野と化した病院の庭で、ナスはふしぎなほどよくとれた。
昔からナスの花にむだはないというが、
それにしても被爆後のナスの実りは異常たった。
八月末から十月にかけて、例年にない収穫があり、
私たちはそれを味噌漬にして毎日食べた。
虚弱体質の私が、千四百メートルの距離で被爆しながら原爆症にならず、
病院の職員や患者全員がレントゲン・カーターに似た自覚症状を感じながら、
なんとかそれを克服し、働き続けることができたのは、
私はやはり食塩のおかげであり、秋月式栄養論の成果であったと思う。
私の周囲にいた人々は、みなそれを信じている。
たとえ学会には認められない説であっても……。
原子病の治療について、私のミネラル栄養論のほかに、
永井先生の「ビタミンB1・ブドウ糖療法」、
長崎医大影浦教授の「柿の葉煎汁によるビタミンC大量投与法」などがあるが、
なかでもおもしろいのは「アルコール治療法」である。
『長崎精機原子爆弾記』には、つぎのような福田所長の体験記が収められている。
反(そり)工師は爆心地から千五百メートルの距離で、
防空壕の下検分をやっているとき、露天で被爆して負傷した。
彼はその日の夕方、田中工務課長のいるところにたどりついたが、
焼けただれて、課長はすぐには反工師とはわからなかったという。
「君はだれかね」「反です。田中さん、やられましたよ。どうせ長いことはない。
どうせ死ぬなら、一杯やりたいもんだ。酒はありませんか」
「酒はないが、アルコールならある」
反工師は、火傷をしているのに、チビリチビリと
アルコールをうすめて飲みはじめた。
身体が燃えるように熱く感じて、工場の外の川に身を浸して、飲みつづけた。
彼はその後元気になったが、同じ場所で同じように被爆した三人は、
一週間以内に死んでいる。これで、原爆には酒がいいという話が広まった。
『炎の中に』の著者である田川衛生兵長は、千四百メートルのところで被爆したが、
その日の午後、長崎駅から大波止のほうへ歩いてゆくと、
五島町に長崎随一の酒屋があり、酒倉に人々が群らがって、
フラフラになるほど酒を飲んでいるのか見かけた。
田川さんも、水がわりに飯ごうになみなみと注いで大酒を飲み、疲れと酔いで、
そのまま寝てしまい、やっと日が暮れてから大浦に帰りついた。
人々は泥と血にまみれ、足もとがおぼつかない田川さんを見て瀕死の重傷と思ったが
ふしぎなことにすっかり元気になっている。
とうとう急性あるいは、亜急性の放射能症は出なかったのである。
長崎医大病院で被爆した調(しらべ)教授(現・長崎大名誉教授)は、
爆心地からわずか六百メートルの病院内で被爆し、
永井隆先生や角尾学長の手当てに奔走し、大ぜいの負傷者を治療したが、
八月末ごろから身体に異常を感じ、九月にはいって、亜急性放射能症が悪化した。
先生自身、死を覚悟していたが、たまたま九月二十日ごろ、
医専の三年生かやってきて、先生のところに泊まった。
白血球二千で疲労感激しく、溢血斑が無数にあらわれていたので、
学生に夜通し話をしかけられて、ほとほと困ったらしい。
早く寝てくれないかと思っていると、学生は土間にあったアルコール瓶を見つけ、
糖液でうすめて飲みはじめた。
「先生もいかがですか」「そんなものを飲んで、死んでも知らないよ」
「大丈夫です。メチルでなく、エチルですから……。さ、どうぞ」
すすめられるままに飲むと、急に身体か温まり、
いくらしゃべっても疲れを感じなくなった。
学生が帰ってからも、先生は朝夕、薬がわりにアルコールを飲んだ。
すると、ぐんぐん力がついて一時は危篤といわれたのに、
間もなく起き上れるようになった。
アルコールが効いたとしか考えられないのである。
こういう例はいたるところにあったらしい。
何が効くかわからない。人間の腸粘膜の細胞は、ふしぎなものである。
手前みそを作ろう
手前味噌とは、自分で自分のことを褒めること。自慢。手前みそ。語源・由来
手前味噌という際の「手前」は、「自分のすぐ前」という意味ではなく、
「自家製」や「自前」、また一人称の「自分」のことである。
手前味噌の「味噌」は食品の味噌のことだが、
現代でも「ポイント」の意味で「味噌」が使われるように、
「味噌」には「趣向をこらしたところ」の意味がある。これは、各家庭で
味噌を作り、それぞれが良い味を出すために工夫をこらしていたためで、
近世には「趣向をこらしたところ」の意味から、人に自慢する様子にも「味噌」が使われた。
「手前どもの味噌は....」と自家製の味噌の味を自慢することから、「手前味噌」という言葉が生じたとするのも
間違いではないが、「味噌」という言葉自体に「自慢」の意味が含まれることから、
自分を自慢する言葉として「手前味噌」が使われるようになったと考える方が良いであろう。
===私は何とかして病弱からのがれたいと医学を求めた。
本当に私は、自分の生命を賭けて医学をした。
今、味噌汁にたどりついた。毎朝の味噌汁である。
これが健・不便の鍵と思う。===59ページ「結論」より
小序
私は研究室にこもって、科学実験のみをしている学者ではない。
また学術論文を次々と発表する学者でもない。
医学に志して三十年間、病人を診察し、また自ら病気になったりもした。
その間、たくさんの病人や虚弱児を診て、病の治し難く、
病の因の遠いのを痛感している。
体質、そして食物、そういった問題を考えつづけてきた。
日々の食物が、私達の健康に、ひいては、病気にかかった場合の軽重の差、
薬物の効果如何、治癒能力にどんなに大切なものであるか、
しみじみと毎日毎日感じている。
食養生、食物の研究を巡りめぐつて、味噌にたどりついた。
味噌は、日本人の食物のかなめであると知った。
これは、日本の国土、日本人の体質によって受け継がれた伝承のものである。
ある思想家がプラトンからスコラ哲学、カント、ヘーゲル、マルクス、
ベルグソンを遍歴して道元、親鸞に帰したのに似ている。
味噌は科学以前のものであった。
しかも科学によって証せられるものである。
秋 月 辰一郎 聖フランシスコ病院
結論
人間の問題は、
それが生命、教育、疾病のどれをみても同じく体質の問題に帰する。
体質は、
生れた時に受け継いだものと我々が日々創っているものとがある。
この創るものは、環境であり、食物である。
食物はその住んでいる土地に密接な関係がある。
特に日本のごとく特殊な島嶼国、
モンスーン地帯とシベリヤ寒大陸の中間にある稀な風土は、
なおその食生活に特殊性と伝統を持っている。
ここに民族の伝承ということがある。
長御食、遠御食という語がある。
先祖代々長く続いた食物は、それだけに尊いものがある。
民族の知恵、先人の知恵がこもっている。
科学的に証明する、しないは、この後の問題、私達の責任である。
科学的に証明できないからといって捨てて省みないのは逆の順である。
五穀、味噂類、これら食品は、日本人の血であり肉である。
言いかえると、この五穀と味暗を尊重して、生命の親として、
今まで伝えて来たからこそ、
日本人はこの島嶼国に数千年繁栄してきたのである。
何故この味噌が科学的に立証されず、また尊重もされなかったのか。
それは、私達の学んでいる医学は、
日本で近々百年に充たないもので、
しかも戦前はドイツ、戦後は米国を師として、学ぶに急であったためである。
発熱すると、牛乳、半熟の卵、パンを食べるよう医師が指示するのは、
ドイツの書物の翻訳であった。
私が患者に味噌汁、梅干、うどん、そうめんと言うと患者や家族は驚いている。
私を「なぁんだ、この医者は勉強してないな」と思う。
実際、うどんや豆腐の味噌汁が、発熱した時はいちばん食べやすいと、
自分で食べているのに気がつかないのである。
身体の弱い子を心配して母親が私に相談する。
「この子は、身体が弱くて、病気ばかりしています。
牛乳や卵やバターは嫌いです。困ります」と訴える。
私は「わかめの味噌汁を毎週二度くらい、
あとは野菜や油揚を入れた味噌汁を毎朝欠かさず食べさせなさい」と教える。
母親は「なぁんだ、味噌汁か」という顔をしている。
味噂汁なんか、食べても食べなくてもすむものだと考えている。
私は、物心がついて以来、痛気ばかりしてきた。
母親や家族にずいぶん心配をかけてきた。
二十歳までは、寿命がもつまいと言われた。
二十歳になると三十歳までは生きまいとみな考えた。
私は何とかして病弱からのがれたいと医学を求めた。
本当に私は、自分の生命を賭けて医学をした。
今、味噌汁にたどりついた。毎朝の味噌汁である。
これが健・不便の鍵と思う。
道は爾きにあり、之を遠きに求む。
道は易きにあり、之を難きに求む、という。
道は近きにあり、須央も離るべからず、離るべきは道に非ず、という。
人生の鍵はそこにある。
クシ・アベリンとクシ・ミチオ両氏による著書「マクロビオティック・ダイエット」で
ミチオ氏はこう記しています。
1945年の長崎原爆による攻撃の時、
秋月辰一郎医師は、長崎の聖フランシス病院の内科医師でした。
爆撃現場から約1.6km地点であるこの病院の入院患者のほとんどが、
原爆による初期の影響を生き抜くことができましたが、その後すぐに、
放出された放射性物質による放射性疾患の症状を見せ始めました。
秋月医師は、病院スタッフと患者に、
徹底的なマクロビオティックの食事指導を行いました。
それは
玄米、
味噌と
たまり醤油のスープ、
わかめやその他の海藻類、
北海道のかぼちゃ、
海塩
という内容で、
砂糖と甘いものを禁止しました。
その結果、病院の全員が無事でした。
同市の市民の多くが、放射性疾患によって命を落としていきました。」
秋月辰一郎氏は幼少期は病弱だった
http://marukawamiso.com/blog/?p=2451
秋月先生は幼少期は病弱だったそうです。
よく、肺結核や胸膜炎を患っていました。
生まれて20歳まで生きることはできないとまで言われました。
虚弱体質ということもあり、幼少の頃はよく、肉や卵、
牛乳などをありがたって偏食したそうです。
しかし、体質はよくならない…。
そうしていくうちに医学を志すことにしました。
西洋医学や現代医学に失望される秋月先生は自らの命を賭して
『医学』を勉強されますが、
この現代医学や西洋医学では自分の病や体質を克服することは不可能ではないか?と
悟るようになりました。
西洋医学に疑問符を抱いた理由は3点。
・人間を平均化する医学であること
・西洋医学に基づく、人を平均化して対処する治療には
各々の体質の違いや生まれた風土、地域などがまったく加味されず、
『体質医学』や『身土不二』がそこにはなかったこと。
・原因療法より対症療法、手術療法であること
現代医学が原因の根っこを改善するのではなく、
起きた症状や病に対して対処・手術する方法であること。
人間の体質を作り変えることが医学本来の姿であり、
信念であると秋月氏は医学を通して感じることになりました。
栄養学の根拠が不明確であること
栄養学の根拠が本当に人間の身体にとって正しいのか?
多面的に見ることができるのか?
と感じるようになります。
−−−−−−−−−−−−−
現代医学の栄養学は人間の生命の源である、
食べ物という問題に関してほんの一部しか明瞭になっていない、
幼稚なものであると判った。
栄養学をそのまま鵜呑みにするのは危険で、
虚弱体質の人びとには栄養学信者が多いのである
−−−(食物と体質 p14引用)−−−−−−
栄養学の疑問符は西洋人と日本人の食文化と風土、気候、身体の違いそして、
動物実験によって、
人間の栄養学が決定されるといこともこの著書に書かれていました。
例、白ネズミにある食べ物を食べさせて、ネズミの体重の増加によって、
食品の価値を決めていること。
ネズミが一番大きくなるもの=人間が一番大きくなるもの?
…そんなことを自分の病と病院に来てくださった患者様を診ながら日々考えたり、
試行錯誤するようになりました。
戦争中も味噌汁によって命を救われる
やがて、日本が第二次世界大戦に突入します。
そして、決定的に味噌が『食の要』ということを自分の体験から感じます。
戦時中も味噌
−−−−−−−−−−−−−
国内に医師が不足していたため、3か月安静にしたのみで、病床から脱した。
そして、医師として働き出した。
結核があったのにもかかわらず、軍隊に入隊したり、原爆に被爆したりとした。
その間、相当以上の無理をした。
病弱であったが、 わかめと揚げを実とした味噌汁が私の身体の要であるから、
自分の病床は悪化しないという確信があった。
また、事実その通りであった。
−−(p21〜22 食物と体質引用)−−−−−−−−−−
長崎に原子力爆弾が投下されて、ナガサキは地獄絵図と化したそうです。
薬も治療器具も爆風などで吹き飛ばされまったくありません。
しかし、原爆に被爆して助けを求める患者様はたくさん病院に来る…。
顔なじみの患者様、お知り合いでなければ、
ここから何もかも投げ捨てて逃げ出したいと思ったそうです…。
『人間が人間を傷つけ、殺し、そしてそれを治療する』というのは何なのだろう?と
感じたそうです。
また、『仁術』 医療は慈愛とおもいやりということも感じました。
原爆病に不思議と秋月先生はじめ、妻や病院で働く看護師の方はかかりませんでした。
その原因の一つに「わかめの味噌汁」があると著書にも書かれています。
『体質と食物』…そして味噌
戦後の復興期になり、食べ物と体質、原爆についていろんな著書を書かれました。
同じく、さまざまな賞も頂くようになりました。
朝日賞受賞、吉川栄治文化社会賞、日本医師会最高優功賞、西日本文化賞などなど。
また、1986年にチェルノブイリ原発事故が起きた時、
秋月先生のレポート『長崎原爆記』の英訳が西欧で広まり、
味噌の出荷量も爆発的に伸びました。
それまで海外の味噌出荷量は約2トンそこそこでした。
しかし、チェルノブイリと秋月先生のレポート以降は
年間14トンまで出荷量が増加しました。
食物と体質 秋月辰一郎著
そんな、秋月辰一郎先生が『食物と体質』という本を書きました。
わずか、60ページしかありません。
しかし、内容がものすごく濃く、お味噌と体質医学のこと、
秋月辰一郎氏の考えが詰まっています。
●しよう油と味檜の食生活 減塩の恐怖より
市場に「減塩しょう油」「減塩味噌」が出回るようになって、私はうんざりしている。
塩味を減らしたしょう油、塩味を減らした味噌は、なぜか日本の食生活が味を失っていくような気がして淋しい。
何も私は、塩辛いしょう油、塩辛い味噌を食べろと言うのではない。
今まで日本の国で伝統的に作られてきたしょう油と味噌でいいではないか −。
何もここにへ来て塩味を減らす必要はないのである。
それこそ、いい塩梅の味噌としょう油こそが、日本の食文化なのである。
大豆、麹、塩の三つが、揮然一体となって熟成されたのが味噌である。
味噌は、唐憎の鑑真によって中国から伝えられたと言われているが、
その中固から伝えられた製法に日本人独特の智恵と工夫を加味して日本的な、
まさに日本文化と言っていい食べ物「みそ」が完成されたのである。
麹の区別により、米味噌、麦味噌、豆味噌の三種類があるが、全体的に多いのは米味噌と言われている。
麹を少なくし、塩を多くすると熟成期間は長く、色も濃く辛味噌になる。
味噌として特別な味わいを持っているのは八丁味噌、
そして味噌の本場として知られているのは信州味噌であり、仙台味噌である。
田舎味噌と呼ばれているのは、一般的に麦味噌のことである。
主に中国、四国、九州地方で作られているが、麦味噌の場合は、麹が多く、
どちらかと言えば、甘口の良さが強調されている。
本当に美味しい味噌を作るためには、甘口と辛口のブレンドを上手にするのがコツだと言われている。
また、その家庭、家庭にある味噌の味は、このブレンドの割合と、だしの取り方にあるわけである。
味噌と並んで日本の副食の味付けに欠かすことができないのがしょう油である。
しょう油は酵母菌の酵素の助けを借りてできた、伝統的食品である。
もちろんこれらの味噌、しよう油を作るのは、自然塩でなければならない。
微妙なミネラルの働きによって、まろやかな味噌、まろやかなしょう油ができあがるのである。
しょぅ油屋や味噌屋から聞いた話であるが、日本で発売されている化学塩を使ったところ、
味噌もしょう油も発酵しなくて困ったというのである。
しょぅ油や味噌が、日本で独特の文化として命脈を保っているのは、海水から塩を作る日本なればこそである。
味噌やしょう油の仕込みは、自然塩でなければならないというのは今や蔵元の常識となっている。
仮に、化学塩を使って味噌を仕込んだ場合、梅雨があけて暑い日が続いても、倉の中には何の変化も起こらない。
それに対して、自然塩を使ったしょう油倉や味噌倉は、梅雨があけて初夏のおとずれとともに、
倉の中はカニが泡を吹くようなガスの音がかすかに響いているのである。
発酵状態の相違によって、本当の塩と化学塩との区別がはっきりしてくるのである。
味噌やしょう油の中で、酵母菌、乳酸菌が活発に発酵活動してくるのは自然塩だからである。
海と塩の重要性 放射性物質を身体から排出 リンク元
「生命の源は海。海のものを食べてれば元気になる。」と、
金谷節子先生はおっしゃってました。
私がこのブログを書き始めるきっかけをくださった医療ジャーナリストの伊藤翠さんも
排出における塩の重要性を書いていらっしゃるし、
ホンマでっかTVでおなじみの脳科学者の澤口先生も「塩はうつ防止に役立つ。」と
テレビで言っていたような…。昨今では高血圧の指標が上が130以上などという、
ほんと普通の血圧でも文句言われる時代です。
こんなものは医者が薬を処方する言い訳なんでしょうけども。
それはさておき、世は大減塩時代。
醤油も味噌も必ずと言っていいほど減塩タイプが売られています。
あの長崎の秋月先生も、食養学に基づき玄米に多めの塩をつけて握って食べていた。
食養学は食物を陰陽で分けて考える。塩はその極陽にあたる。
どんどん広がる原爆症を極陰と考えて、
陰陽のバランスをとるために塩を多用したと思われます。
ちなみに極陰とされる食物は「砂糖」
秋月医師の著書「死の同心円」のなかで
「食塩のナトリウムは造血細胞に賦活力を与え、砂糖は造血細胞に対する毒素」と
述べている。砂糖の毒性についてはまた今度
また、この本の中で秋月医師は、
原爆症に伴う吐き気や疲労感は、放射線教室で働いていたときに何度か遭遇した、
「レントゲン・カーター」の症状に似ていると気づいた。
これは、連続してX線の深部照射を受けた患者にみられる症状で、
その治療には生理的食塩水より少し塩分が濃い水を飲ませるのが当時常識であった。
自然海塩は、塩化ナトリウムだけでなく、塩化マグネシウム、塩化カリウム、
カルシウム、マンガン、亜鉛、鉄などが含まれる、まさに天然のリンゲル液。
以前の排出情報で
セシウムにはカリウム、
ストロンチウムにはカルシウム
プルトニウムには鉄
と書いたように、海には排出に必要なミネラル類がたくさん含まれています。
だから、本来ならば、この海水の成分をたっぷり含んだ
こんぶ、ひじき、のり、わかめ などの海藻が排出にすごく効果的なのです。
なのに、私たちはこの海を汚してしまいました。
いまさらですが放射能の基礎について復習してみます。
まずはセシウムについて。当初はヨウ素が注目され量も多かったですが、現在基本的に話題になるのはやはりセシウムです。ヨウ素は半減期が8日間、それに比しセシウムは、セシウム134が約2年、セシウム137が約30年と、非常に長い半減期。セシウムは、人体にとって必要な元素であるカリウムやナトリウムと似た性質をもっています。そのため、セシウムを人体に取り込んでしまうと、人の体はカリウムとセシウムの区別がつかないために、体の組織へと積極的に吸収してしまいます。カリウムについては細胞内ミネラルなのでセシウムは細胞の中にどんどん入っていってしまいます。
セシウムは、がんの発症や白血球の減少といった影響を出しやすい理由の一つはこれです。子供は特に細胞分裂が活発なので危険を伴いやすいです。
また、セシウムは土壌との親和性も非常に強いです。その土壌は何十年も汚染され使うことが難しくなります。セシウム137を1回だけ1000ベクレル摂取した場合は、700日後(約2年後)には体内に蓄積したセシウム137は0ベクレルになります。しかし、毎日1ベクレル摂取し続けると700日後(約2年後)には体内に蓄積したセシウム137は200ベクレル弱になり、毎日10ベクレル摂取し続けると700日後(約2年後)には体内に蓄積したセシウム137は1400ベクレルを超えます。 ベラルーシ、ウクライナの医師 ユーリ・I・バンダジェフスキー博士は、子どの体重1kgあたり10ベクレルセシウム137が蓄積しただけでも、遺伝子に影響を与え、不整脈を起こす危険性がある、と警告しています。子どもの体重1kgあたり0ベクレルから5ベクレルのセシウム137が蓄積している子どもでは、80%の子どもたちは正常な心電図です。 しかし、子どもの体重1kgあたり12ベクレルから26ベクレルのセシウム137が蓄積している子どもたちでは、正常な子どもは40%にしかすぎません。子どもの体重1kgあたり74ベクレルから100ベクレルセシウム137が蓄積すると、正常な心電図の子どもは12%にしかすぎません。
で、現在給食や家庭の食事では、何ベクレルくらいの量が入っているんでしたっけ?。
プルトニウムについてはどうでしょうか?あるデータによると原発事故前から30ベクレル/m2のところが全国各地に存在したそうです。これは核実験の後遺症が主たる要因でしょう。一応主たる要因ととらえるべきですね♪。
プルトニウムは、この世で毒性の強い放射能物質として有名です。である。その主たる原因は放出するα線です。 本来α線は貫通力が弱いのですが、プルトニウムが体内にとりこまれると永久不滅に内部被ばくすることが問題視されています。プルトニウムの場合は特に内部被ばくに注意が必要です。 気管や肺の繊毛に沈着し、長く留まって組織を被爆するといわれています。いっぽう食べたプルトニウムは胃腸壁を通して吸収されやすく、吸収されたプルトニウムは主として骨に集まりやすいとされています。これは骨のガン、とくに白血病の原因となりかねませんね。
もともとプルトニウムはウランに準ずると考えられていますが、その化学毒性が現れるよりもはるかに少ない量で放射線障害が生じると予想されるため、化学毒性のみでプルトニウムの毒性を論ずることはできません。つまり簡単に言うとウランより毒性が強いです。実効線量計数一つとってもヨウ素やセシウムと比べてかなり毒性が強いです。
プルトニウムの化学毒性は重金属並みであり、それほど危険ではなくまた仮に微量に取り込まれたとしても、それほど危険ではないとする論調があります。これは全くのウソ。しかしこのウソを説明するためには、科学から追っていても堂々巡りになるだけでしかありません。この文章だけでもかなり間違っています。重金属ってのは悪いが猛毒です。バカな安全論者はそこからして知りませんから、もう手には負えません♪。
ダウケミカル社(この会社が何だったかは是非お調べください♪)の工場は、1955年から一貫して核兵器用のプルトニウム製造先です。この会社からは合計100gに近いプルトニウムが漏れ出したと推定されているそうです。プルトニウムの1人あたりの許容量は4000万分の1gなので40億人分の許容量のプルトニウムに当たりますね♪。 もちろん土壌中の濃度が高いほど、癌や白血病などの発生率が高いデータが存在しています。それにそもそも放射能は癌が問題なのではなく、その手前で免疫異常、奇形、体調変化、精神異常など様々な弊害をもたらす毒です。
推進派の御用学者大橋弘忠がプルトニウムは安全とかほざいてますが、まさに御用学者の筆頭ですね♪。彼の言葉を引用すると
大橋「プルトニウムの毒性は、そのプルトニウムの健康被害を扱う専門家という方は社会的毒性というふうに呼んでいます。実際にはなんにも怖いことはありません。」
大橋「仮に大げさな話をしてプルトニウムをテロリストが取って行って貯水池に投げ込んだと。そこから水道が供給されて。じゃあ何万人が死ぬかというとそういう事はありません。ひとりも死なないというふうに言われています。」
大橋「プルトニウムは水にも溶けませんし、仮に体内に水として飲んで入ってもすぐに排出されてしまいますから、その小出さんが言ってることが起きるのは、全く仮想的にプルトニウムのつぶつぶを一個いっこ取り出して、皆さんの肺を切開手術して肺の奥深い出てこないところに1つづつ埋め込んでいったらそれくらい死にますよっていう、全くおきもしないような仮想について言ってるわけですね。」
大橋「もうひとつ聞きたいんですけど、プルトニウムで肺がんになって亡くなった方というのは歴史上いるんですか? そういう疫学的な所見はあるんですか?」(あるよ?思いっきり?)
放射性ヨウ素は半減期が短いことで知られていますね(8日間)。原発事故の放射能汚染の主原因として認知されている物質です。ヨウ素は甲状腺にたまりやすいですから、甲状腺の組織を破壊して癌化しやすいのはこれまた有名です。一説には低線量被ばくの方が高線量被ばくより、甲状腺腫や癌になりにくいとする論調もあります。チェルノブイリで認められた嘘っぱち医学所見の一つとして、ヨウ素と甲状腺の関係などが挙げられています。
被曝によって甲状腺ガンを発症する危険性は、年齢が高くなるにつれて減少すると考えられています。ただ研究も少ないようですからそうとも言い切れないでしょう。一番の問題は疫学や統計学的に証明することが困難なことです。これを御用学者や政治家や官僚は知っていてうまく使っています。だから彼らに対抗するには放射能学でいちいち対応しても意味はありません。
ヨウ素は胎児に対する危険性が指摘されています。要素を使った検査委においても避妊が推奨され、6カ月妊娠を避けるよう警告されています。ヨウ素は尿や汗から解毒しやすい放射能物質なので(逆に言うとそこから出てきやすいので)、放射性ヨウ素で治療を受けた患者が使用するトイレ・流し・ベッドのシーツ・衣服をいつも綺麗にしておくことまで推奨されています。
放射線が放射線崩壊をすると、キセノン131mになりますが、ここでフリーラジカルを産生します。これが体のDNAを傷つける基本物質です。体内に取り込まれるとその距離は非常に近くなります。そして現在日本では希釈政策が行われており、グーミンの体でいかに処理するかという、全てに毒に共通した政策が行われております♪。
一説によるとチェルノブイリでは、事後の9年後に子供達の甲状腺ガンの発生率がピークに達しているそうです。また医学的に言って、CTの線量だから安全とか、マンモグラフィーの線量だから安全と言っていること自体がウソです。これらでも発がん率は増します。だから低い線量だから安全というわけでもありません。
セシウムが一番危険視されておりますが、その裏で危険視されているものの一つがストロンチウムです。
放射性ストロンチウムはカルシウムに似ていることが問題で、体内に入れば骨や歯に濃縮して蓄積しやすいとされます。半減期も長く約29年。水に溶けやすいという性質があり、セシウムと違って土壌に長くとどまるというより拡散しやすい放射性物質です。体内に入るとなかなか出てきにくいのはほかのものと同じということです。またカルシウムは細胞の信号伝達をつかさどる重要なミネラルですが、これと体内で間違えられることになるため、細胞自体が働かなくなる可能性もあると思います。ストロンチウムは骨だけでなく脳にも障害をきたしやすいとされています。ストロンチウムがイットリウムになるとほかの臓器にも移行しやすくなるようです。
一時、日刊ゲンダイで茨城のストロンチウムがチェルノブイリの3倍以上と掲載されたそうですが、当然ながらありうることです。また、一時のデータとして、港区赤坂でストロンチウム90が6万9千ベクレル/立方メートル、米軍横田基地内で、ストロンチウム90が9千ベクレル/立方メートルなどという説もあるようです。もちろん政府発表では出てきません。江戸川区では放射性ストロンチウム土壌32.6Bq/kgという数字も見られます。ストロンチウム、462兆ベクレルが海に流出したといううわさもあります。 この先、生物濃縮により魚はストロンチウムが増えるかもしれません♪。また牧草から乳牛にも入りやすいとされていますので、カルシウムが多い不健康食品である牛乳は、ストロンチウムが入っているかもしれません♪。
実は知っている人は知っていますが、ストロンチウムをはじめとする放射能測定の民間団体に対して、自治体や行政は徹底的に圧力を加えてきています。つまり機械を使うことも許さないとかそういうレベルになってきています。売ることも止められていることが多いです。放射性ストロンチウムは主としてベータ線をだす核種なので、特殊な機械でないと測れません。政府はどうしてもストロンチウムについて話題にさせたくないようです。正確な数字ではありませんが、セシウムの数百倍の毒性を持つという説もありますね♪。ネイチャーという雑誌ではラットにストロンチウムを投与した結果、たくさんの死産となりました。
トリチウムとは三重水素のことで水素の同位体の1つ。水素の同意絶ちしても水にも溶けやすいが、自然界ではほとんどは酸化物である三重水素水、トリチウム水 HTO として存在する。この意味が分かる人はいったいどれくらいいるでしょう♪。しかし単体でいえばこのトリチウムは毒性が薄いともいえます。弱いβ線を出して崩壊するからです。ただ、違う意味でこのトリチウムは最もヤバい放射性物質であるという話もあります。
まず素人的に考えてみますと、トリチウムというのは極論すれば水素です。しかも自然界ではトリチウム入り水が一番多いわけで、次に多いのがトリチウムが普通の水に溶け込んだものです。数だけ考えてもチョーヤバいでしょうね♪。生物の中で最も数が多いのは水素原子と炭素原子と酸素原子です。つまり人体の中ですべてに影響を与える物質といえます。たとえとしてはストロンチウムやプルトニウムを大砲のような兵器とするなら、トリチウムは散弾銃や機関銃のようなものかもしれません。あなたがたグーミンはいったいどっちでやられたいと思いますか?
トリチウムは汚染水から除去することはできません。なぜなら水だからです。だから唯一放射能を除去すると言われている逆浸透膜型の浄水器でも、トリチウムは除去することができません。半減期も長いようですし、やっぱりニホンジンの滅亡は近づいてきているかもしれませんね♪。
トリチウムは、(水に取り込まれると)藻類、海草、甲殻類、そして魚などの水生生物に集中して蓄積されるようです。トリチウムは脳腫瘍、赤ちゃんの先天性奇形、多くの臓器でのガンだけでなく、その他普遍的な問題を起こします。安倍ポチ君は「原発の活用」と「原発の輸出」を推し進めていますが、もちろんこれは計算されつくしたものです。売国奴なんて言葉をかけるとポチ君にとってとても失礼です。グーミンなど売国する意味がもともとありませんから?