お塩の製造や供給が 国家の重要な役割の一つであることは
古代から現代に至るまで同じです
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考えてみると、このことはほかの野生動物や虫たちにもいえるかもしれません。
象の墓場″というのを聞いたことがあります。
象は死期を悟ると、人知れずある場所へいって死ぬ″というのです。
が、いままで、誰ひとり、象の墓場を発見し たという話は聞きません。
今日のように、交通手段や情報網が発達している世の中で、
象の墓場″が見つ からないなんて、あり得るでしょうか?
ひょっとすると、そのようなものはないのかもしれません。
ただ野生動物の死骸が見つからない″という謎は苦から人々の間にあった ……。
が、それに対する答えが思いつかない。
そこで野生動物のなかでも、体が大 きくて目立つ象に、
その謎を託して象の墓場″という話がつくられたのではないでしょうか。
こうしてみてくると、私たちは、人間と、人間が関係したペットや家畜以外の、大部分の野生動物については、
その死骸を見ることは、めったにないということに、あらためて気がつくのです。
カラスをはじめとする鳥たちや、野生のサル、ウサギ、モグラ、ヘビ、カエルなど、
それにたくさんの虫たち……。
本来なら、あらゆるところに彼らの死骸が落ち ていてもおかしくないはずです。
なのに、世の中は、異常なまでにきれいさっぱりとしています。
いったい、なぜだろうか? やはり彼らは死ぬとき、消えてしまう″ のでしょうか。
いずれにしても、これまで私たちが、一度もこのことに気づかなかったのは、確かです。
こんなに身近なことなのに、なぜ、生まれてから今日まで、考えてもみなかったのでしょう?
そこには、なにか大きな落とし穴がある気がするのです。
カラスやハトやスズメ、それにゴキブリやネズミやカエルやトンボ。
私たちのすぐ身近にいる彼らの死骸が1ない′こということに、
なぜ、いままで 気づかなかったのか……不思議なくらいです。
それはなぜか? たぶん「常識」というものに、私たちがとらわれているからに ちがいありません。
「常識にとらわれている」ということは、常識以外のことには、 頭がまわらない、ということでもあるのです。
「カラスの死骸は、どこにいってしまうのか?」という問題は、私たちの常識の外にあったわけです。
ところで、私たちはよく「それは常識に反する」とか「科学的でない」といって、
新しい考え方や不思議なことをバカにします。
常識″ っていったい、なんでしょう?
かの有名な科学者アインシュタインは、次のような名文句を残しています。
「常識とは、私たちが若いときに受けた、教育による偏見にすぎない」
ふつう、私たちがものを考える″とき、自分の頭で考え、自分なりに判断している、と思っています。
ところが、本当はちがうのです。
じっは、自分で考えているつもりでも、ほとんど他人の考えや、他人が押しつけたことに頼っているのです。
ここで、あらためて考えてみましょう。
私たちはふだん、物事を判断するとき、どのようにしているのでしょう?
まず、ある情報″を、目や耳から知ります。
たとえば、テレビから情報を得るときなど、
目で画面から……そして音声を耳か ら……というふうにキャッチします。
が、どちらかというと目のほうが主で、音は、その補助的な役割になっていることが多いのです。
このほかにも、口で味を、鼻からにおいを、手や皮膚から触った感覚をということもありますが、
大部分の情報は、目や耳からなのです。
こうした目、耳、鼻、口、皮膚といった五つの感覚器官は、生物がだんだん進化してヒトになる間に、
それぞれに応じて発達してきたものらしい。
つまり、進化の時代によって、情報をとり入れる主な感覚が変わってきたわけです。
何十億年もの昔、まだ生物がアミーバのような単細胞だったころは、
目も耳も鼻も口もなかったので、触覚だけで、まわりの情報を感じとっていました。
それが、やがて魚になり、目や口ができ、陸にはい上がって爬虫類になり、
乳類になり、と進化していくうち、耳も鼻も発達しました。
魚や爬虫類のころは、口が、なにかを確かめるのに大切だったのです。
哺乳類に なって、森林や大草原をうろつきまわる野獣の時代は、
鼻がよく発達し、主ににおいで物事を判断しました。
いまでも犬や猫は、目で見るよりも鼻からのにおいで「ソレガナンデアルカ?」を見きわめることが多いのです。
サルの時代になると、目が異常に発達しました。
木から木へ飛び移るときなど、距離を測るのには、どうしても性能のよい目がないと難しかったのです。
そして、人間の時代は、というと、目のほかに脳が発達しました。
つまり目から情報をとり入れ、それを脳で判断する″ようになったわけです。
さて、目は、得た情報をどのように脳に伝えるか?
私たちはふだん 「自分なりに考えた」とか「私の考えでは」とかいっています
が、じつは全部誰かに教えられた″ か 自分で見たり聞いたりしたこと″をベースにしているにすぎないのです。
よく「自分は頭がいい」とか「インテリ(知識人)だ」と思っている人や、
他人 からもそう評価されている人がいます。
が、こういう人はたんにこれまでに記憶にインプットされたものをうまく順序だててとりだせる″
というだけなのではないでしょうか。
「論理的」というのも同じことです。
「常識にしたがっていれば、まちがいない」という考えの人も多いのですが、
常識 を大切にするあまり、
新しい考え方や、いわゆる「常識に反すること」を頭から否定してしまうのは考えものです。
また、私たちは、とかく「これこそ常識」と、
まるで地球上どこへいっても通用する絶対の真理のように思っています。
が、じつは私たちの常識は、限られた地域の人だけにしか通用しないシロモノなのです。
たとえば、日本では、はじめての人に即断をするときは、おじぎをします。
が、アメリカやヨーロッパでは、握手をします。
ここまではなんとなく常識″という気がします。
ところが、もっと未開の土地へいくと、
鼻と鼻をこすりあわせるのが挨拶の常識というところがあるでししょうし、
ひょっとすると、ツバを吐 きかけあうのが親しみをあらわす挨拶というところだってあるかもしれません。
そこでは、おじぎや握手は認められません。
へたをすると、握手をしようと差しだした手が、相手に対する攻撃のしるしと受けとられて、
殺されることだって起こりかねません。
何年か前に元恵泉女学園大学の鈴木一郎先生(比較文化論の教授)から次のよう な面白い話を聞きました。
あるとき鈴木先生が、学術調査のために、いまでも原始的な生活をしている裸の部族が住む、
南米アマゾンのジャングルの奥深くに入っていったときのこと。
現地に着いて何日か過ぎたある日、先生が川のほとりに立っていると、
村でいちばんの美人といわれる16〜17歳の若い女の子がやってきました。
「なにをするのか?」と先生が思っていると、
その女の子は、いきなりこちらへお尻を突きだし、肩ごしに先生を見ると、ニッコリ笑ったといいます。
不意をつかれた先生は、どうしてよいかわからず、とりあえずニッコリとほほえみかえしました。
すると、どういうわけか、その女の子は急に怒った顔になると、どこかへ駆けだしていってしまいました。
やがて彼女は蛮刀をふりかざし、激怒した彼女の兄をつれてもどってきたのです。
そして、驚いたことに、その兄がいきなり先生に斬りつけてきたといいます。
つまり、その部族の中では若い女性がお尻をむけてニッコリした場合、
男性はその娘のお尻をボンボンと叩いて、
「君はきれいだね」とか「君はかわいいね」といってあげなくてはいけない≠ニいうことだったのです。
それが、この原始部族での「常識」だったのです
それをしなかったということは、その若い娘を侮辱したことになるのです。
その娘の兄が「妹の恥は、家族の恥」と考えて斬りつけたのもムリはないというのです。
が、鈴木先生に、そんなことを最初からわかれというほうがムリというものでしょう。
このことからみてもわかるとおり、「常識」というのは、ある限られた文化圏
……つまり共通の文化をもっている地域の中だけにしか通用しないものなのです。
私たちが住んでいるのは、西欧文化圏(西欧式文化を中心に考える国々)の一つです。
だから、私たちの常識も、その西欧文化圏内でしか通用しないのです。
なのに、ともすると私たちは、
自分の「常識」が世界じゅうどこへいっても通用すると思ってしまうことが多いのです。
「常識」は、時代によっても変わります。
日本でも、第二次世界大戦で負ける前までは、女性に選挙権がないのが常識でした。
なにをするにも、男性が主役で、女性はそのうしろにつつましく控えていなければなりませんでした。
それがいまでは、男女同権……
どころか、最近ではいろいろな分野でウーマンパワーのほうが活躍しているのが「常識」になりつつあります。
また「常識」 は、状況によってもちがいます。
戦争をしている最中は「敵兵を大勢殺した人」は英雄として表彰されます。
が、平和なときに「大勢の人を殺す」と、たんなる殺人者です。
刑務所にほうりこまれるか、へたをすると死刑になってしまいます。
これも、考 えるとずいぶんヘンな話ですが、その状況の中では、それが「常識」となってしまうのです。
というふうに、いろいろと考えてみると「常識」というものは、
たんにその時々で日常生活に便利だから使われる、というものにすぎません。
絶対的なものではないし、もちろん「真理」などではありません。
が、私たちは時々「常識」を「絶対」とか「真理」 のように錯覚してしまいます。
そうした「常識」にとらわれていると「カラスの死骸はなぜ目につかないんだろう?」という、
ごく身近で、当たり前のことにさえ気がつかずにすごしてしまいます。
そればかりか「本当に大切なこと」にも気づかずに、一生を終わってしまうことになってしまうのです。
21世紀からの「新しい世界」を、「新しい考え方」でつくりあげるには、
この際 一度、「常識」というものを捨ててみないとダメなのではないでしょうか?
といっても、私たちがものを考えるとき、
「過去の教育や体験をもとにしか考えられない」という長年のクセがあるので、ちょっと難しいかもしれません。
じつは、私たちの先祖が昔からこのことに気づいて、無意識のうちに利用してきたらしい証拠がいくつかあります。
たとえば、建築や工作のときによく使われるネジ。
あれは、なぜ右まわりが「締まる」で、左まわりが「ゆるむ」
なぜか、世界じゅうが共通してそうなっています。
実際に手を使ってネジまわしをやってみるとよくわかります。
なのでしょうか?
たしかに、右へ回すほうが、手に力が入りやすく、左まわしは力が入りにくいのです。
時計のネジを巻くのも、右まわしです。
「茶道」の作法でも、お茶をたてるときには、「茶せんを右まわしに」と教えられるそうです。
私たちがよくいう言葉に「左まき」というのがあります。
「あいつは、ちょっと左まきだから……」などと、
「あまりふつうではない人」や「アタマの良くない人」という意味に使われます。
これはどこからきている言葉なのでしょうか?
ツムジを見て「左まき」だからといって、その人がオカシイというわけではないでしょう。
これはどこからきている言葉なのでしょうか?
ツムジを見て「左まき」だからといって、その人がオカシイというわけではないでしょう。
となると「左まきLというのは、ふつうの人より能力が、
マイナスに傾いている人という意味なのかもしれません。
なぜ右まわりがプラスで左まわりがマイナスか、については、ハッキリしたことはわかりません。
が、なんとなくいえることは、
「この三次元の世界の中では、物質の基本となるエネルギーが、そのようにできているからではないか?」
ということです。
第1章でみたとおり、この私たちの世界(三次元)に物質があるのはなぜか、というと、
「真空」または「無」の世界(別の次元)から、物質の基本となる素粒子が飛びだしてくるかららしいのです。
つまり真空(無) には、目に見えない、未知のエネルギーがぎっしりとつまっていて、
それが、あるきっかけで素粒子となって、この三次元の世界に現れます。
そのときのエネルギーの回転方向が「右まわり」なのではないか、と推測できるのです。
もしそうだとすると、
私たちの身体自体……細胞の一つ一つまでが「右まわり」のスピンエネルギーをもっていることになります。
その右まわりのスピンエネルギーをもつ人間が、それとは反対方向の左まわりに動くとき、
ちょうどネジがゆるめられるようにエネルギーが弱められます。
そのために、前の実験で左まわりに一周されてしまったBさんは、
エネルギーを失って力が入らなくなってしまったのでは? と考えられるのです。
この推測が、あたっているかどうかはわかりません。
が、この 「右まわり」 のスピンエネルギーを利用すると面白い実験ができそうなのです。
Y効果実験でわかったように、相手の身体を逆時計まわりに回ると、
相手の力が弱まるのだから、ボクシングの選手などは、相手の右へ右へと回りこんだほうが有利、
ということになります。
うまくチャンスをつかんで、相手のまわりを逆時計まわりに一周できれば必勝″ということになるかもしれません。
いや、試合中に一周するのは、かなり難しいとすれば、試合の直前でもいいかもしれません。
「ご挨拶を……」とかなんとかいって、さりげなく相手のまわりを一周してしまうのです。
ここでカンのいい人は「これはケンカにも使える」と思ったのではないでしょうか?
が、実際に殴りあいのケンカをするなんていうのは、おろか者のすることです。
その前に解決してしまうほうが賢いにきまっています。
そこで、もしケンカになっても、言いあいをしている段階で、相手に気づかれないよう、
それとなく、相手のまわりを逆時計まわりに一周してしまうのです。
スピンエネルギーがゆるめば、なにも体力が落ちるばかりではありません。
気力 や気迫が弱まるにちがいないから、言いあいの段階で十分勝てるわけです。
殴りあいになる前に、こちらの言い分が通るにちがいありません。
となると応用範囲は広いといえます。
相手の怒りを静めるとき、相手に自分の要求をのませたいとき、相手を自分の思うとおりに変えたいときなどです。
たとえば、前からおつきあいをしたいと思っていた彼女や彼氏に、想いをうちあけたいとき、
その直前に、なにげなく一周するとか、借金を申し込みたいとき、さりげなく相手のまわりを一周するとか……。
『警告』まちがっても、時計まわりに一周しないように
これは、飲み物や食べ物が、おいしくなる、という便利な実験です。
結果があまりに意外なので、特別な能力がある人だけにしかできないのでは?
と思う人がいるかもしれませんが、そんなことはありません。
まず、味を変えたいもの、たとえば、コーヒーを目の前に置きます。
右手の指先を5本とも下を向くように揃え、コーヒーから2〜3センチのところにかざします。
それができたら、あることを心の中で念じます。といってもたいしたことではありません。
自分が飲むものなら「自分の身体に……」、
誰か相手のためなら「その人の身体に」、それぞれ「身体に良いものに変われ」と心で念じるのです。
あんまり力まないほうがいいでしょう。「いっしょうけんめい、念を入れよう」
なんて思うと、かえって失敗します。リラックスして、気軽におこないましょう。
パフォーマンスのつもり、くらいがちょうどいいようです。
ただし、肝心なのは、本気で「相手の身体」または「自分の身体」のためを思うことです。
そして「絶対にうまくいく」という自信が必要です。
やる本人が「うまくいくかな……」「失敗したら恥かきもんだな」などと思っていると、
なにをやってもうまくいかないことは、この実験ばかりではないでしょう。
自信をもって、きっぱりとやることが大切です。
結果は……、「えーつ」というくらい味が変わります。
コーヒーは、まろやかな味になるし、ビールも苦みがなく、美味しくなります。
もう一つ大切なことがあります。
念じ終わったら、飲む前に、必ず右手の5本の指を右まわりに回すことです。
これは、Y効果の応用その2)でも書いたように、
「右まわりのスピンエネルギーを飲み物に入れる」ためです。
たったこれだけのことで、なぜ味が変わるのでしょう?
これにも科学的な説明はありません。
あとで述べるように、
科学は、こうした「物質に置きかえて研究することができない」現象には、はじめからタッチしたがらないからです。
が、これも、Y効果で説明したように、「人間の身体にとって害になるかどうか」
を瞬時に判断するばかりでなく、その成分を「身体に良いものに変えることができる」らしいのです。
この念パワー効果は、友だちなどといっしょに試すと面白いでしょう。
その場 合、気をつけなければならないのは、Y効果のときと同じです。
喫茶店などで、友 だち相手にやってみるには、まずこれがどういう実験かをいわないではじめる。
なぜなら、実験のあとで、「きっと気のせいだ」といいだすにちがいないからです。
そこで、まず「そのコーヒーをちょっと飲んでみて」といって、味を覚えさせておきます。
次に、念パワー効果を実験したうえで、「もう一度飲んでみて」と試させるのです。
そして、味がどう変わったかをきく。
たいがいの場合、「味が丸くなった」とか、「甘くなった」というにちがいありません。
これも、いろいろな飲み物や食べ物で試してみるといいでしょう。
安物のウイスキーやブランデーなども、高級品のように昧が「まろやか」になります。
ただし、友人が外食がちだったり、インスタント食品やファーストフード大好き人間だったりすると、
なにをやってもダメでしょう。
こういう人は、味の感覚が鈍つてしまっているから、ちょっとやそっとの味の変化では感じられないのです。
そういう場合は、こだわらずにほうっておくしかありません。
ファミリーレストランの食事や、ハンバーガー店などのファーストフードを食べるとわかりますが、
かなり味の濃いものが多くなっています。
これは、身体の感覚がいろいろな原因で鈍くなっているために、「うんと塩辛い」か、
「うんと甘い」「うんと苦い」といったものでないと、味として感じなくなっているせいではないでしょうか。
それは、私たちが、身体というセンサーのだす信号を無視して、
頭で考えることにばかりに気をとられているからにちがいありません。
私たちは、もっと身体の声に耳をかたむける必要があるのではないでしょうか。
少なくとも、「自分の身体のことは、自分の身体がいちばんよく知っている」はずなのです。
念パワー効果は、次のような場合にも応用できます。
味噌汁やカレーをつくるとき、ジュースやウイスキーの水割りなど、
なんでもか きまぜるときは、左まわりにします。
と、なぜか平均にうまくまぎるのです。
ただし、最後に必ず右まわしにかきまぜて、スピンエネルギーを入れておくことが大切です。
これを忘れると、なぜかマズくなります。
かきまぜる必要がないものでも、美味しくしたいときは、スプーンでもハシでもけっこう。
右まわりにかきまぜながら、「美味しくなってネ」とか「身体が欲しいものになってネ」と思う。
それだけで、本当に美味しくなるから不思議です。
このほか、いろいろなものにチャレンジしてみてください。意外な発見があるかもしれません。
ネジの原理を応用して、右まわりは、「締まる」、つまり「味がひきしまる」とか
「すべて良い方向へ」「プラス志向」など、
左まわりは、「ゆるむ」、
つまり「拡散する」「まざりあう」「力が弱まる」「力まず、ゆったりとリラックス」というふうに
自分なりの解釈をつくってあてはめてみると面白いでしょう。
たとえば、犬や猫の頭をなでてやるときに、右まわりが多いのはなぜ?
左まわりになでると、ペットはどう反応するだろう? などです。
そういえば、子どもの頭をなでてあげるときにはなぜか右まわり。
これもスピンエネルギーに関係があるのでしょうか?
この本でこれまでにみてきたことはそれぞれ、
私たちがいままで 考えてもみなかった″ことばかりではないでしょうか?
カラスの死骸……″ にしても不思議実験″にしても、私たちの常識の中にはなかったはずです。
ここで、私たちの常識とはなにか? その正体について考えてみましょう。
それは一言でいえば、西欧式文明を中心とした国の中での常識といえるでしょう。
では、西欧式文明とはなにか?
というと、いろいろあって難しいのですが、この際、大胆にその中の主な二つをとりだして考えてみましょう。
それは、
一、科学を中心とした考え方
二、資本主義(利益……つまりお金もうけを中心とした社会の仕組み)ということです。
ところで 「科学」ってなんでしょうか?
その前に……。私たちは「科学」という言葉を聞いたとき、なにを思い浮かべるでしょう?
「なにやら難しそうなこと……」というのが、まず第一印象です。
次に「科学的に証明された」とか「科学的知識」といった言葉が、断片的に頭に浮かんでくる程度でしょう。
よく考えてみると、私たちは「科学」がなんであるか、について、ほとんどよくわかっていないことに気づきます。
でも「これは科学的に証明されています」といわれると、
一も二もなく「へへーっ」とひれ伏してしまうのではないでしょうか。
べつに科学を否定しようなどと思っているわけではありません。
ただ、私たちは「科学的」という言葉にかなり弱いのです。
ここに、ある薬があるとします。
それが 「病気にきくか。また副作用がないか」を薬屋さんの店貞と議論していたとします。
そのとき、店員が「それは科学的に証明されているんです」というと、
その二言で、「なるほど……」と思ってしまいませんか?
そうとうに疑い深い人でも、それ以上は追求しようとはしないでしょう。
「いったい誰が、どこで、どのような実験をした結果、どういう証明がなされたのか?」と、
誰も聞こうとはしないのです。
これは、かなりおかしな話です。
「誰が?」というだけでもかなり大きな問題で、
これが、そんじょそこらの自称科学者が自宅の四畳半でやった実験だったら、たまったものではありません。
が、なぜか「科学」 については、そういう疑問もわかずに、自動的に受け入れてしまうのです。
それはなぜでしょうか?
私たちは「科学」というものを「頭から信じこむ」クセがついているのです。
「科学……」という言葉を聞いたら、
無条件に「よくわからないが……、信用がおけそうだ」と思うようになっているのです。
これはちょっとへンなことではないでしょうか? なんだか、新興宗教みたいです。
「教祖さまのお言葉はゼッタイ」として、信者は誰もそれにさからわない、というのと似ています。
意味がわかろうがわかるまいが「科学的」というだけで、信じてしまう″
科学にはそうした一面があるようです。それはなぜでしょうか?
最初にいった ように私たちの社会は、科学を中心とした考え方で成り立っているからなのです。
私たちは「科学」を絶対のものとして尊重するよう、いつのまにか「教育」されているのです。
ここで「科学」 ってどういうものか? をはじめから考えてみましょう。
多くの人は「科学」は「真理を追究するための学問だ」と思っているようです。
が、どうもちがうようなのです。
先日、東京電機大学のある高名な教授に、次のような質問をしてみました。
この大学の付属高校が、私の高校時代の母校なので、気やすくお聞きすることができたのです。
「先生、電気は、なぜあるんですか?」
教授の答えは「その研究は電気学の範囲にはないんです」でした。
「電気学というのは、最初から電気というものが、この世に存在する″というこ とを前提として、
それがどういう働きをして、どういう法則性をもっているか?を研究する学問」ということなのです。
つまり、電気学は、この世に電気が存在する理由、
いいかえれば、電気というものの究極の真理を追究するものではないのです。
同じように科学のほかの分野でも、それがなぜ存在するのかという真理については追究しません。
「それがどのような働きをするか」についてだけ研究する、というのが「科学」らしいのです。
「科学」が なぜ″という根本的なことに答えられないことは、たくさんあります。
たとえば「人間は、なぜいるのか」という質問も、
もとをたどっていくとわからない″としか答えようがないのです。
「人間は、猿と同じ種類の先祖から枝分かれして、進化した」という話は、ウロ覚えながら聞いた気がするでしょう。
そのまた先祖をさかのぼっていくと、晴乳類⇒恐竜のような爬虫類⇒両生類⇒魚類……というふうにたどって、
ついにはアミーバのような原始的なものにたどりつきます。
では、そのもっと前の最初の生命が、どのようにして地球の海の中にできたか?
についてはどうかというと、いくつかの仮説があります。
たとえば、いまから30億年以上前の地球と同じような環境を、
実験室のガラスの容器の中につくって、当時と同じように強力な雷放電を起こすと、
生命のもとであるアミノ酸ができます。
そこで生命は、地球上に自然に発生した″という説があるのです。
また、地球に飛んできた隕石の中から、生命のもとになる有機体が発見されました。
そこで、地球上の生命のおおもとは、宇宙から、限石にくっついて飛んできた、という説もあります。
でも、どこまでいっても「なぜ人間がいるのか?」とか「なぜ生命があるのか?」という疑問には、
科学は答えられないのです。
同じように「地球がどのようにしてできたか?」とか「宇宙はどのようにしてはじまったか?」などは、
いくつもの仮説がたてられています。
が、「地球がなぜあるのか?」「宇宙がなぜつくられたのか?」は、科学では、わかりません。
このように「科学」は「どのようにして」は、なんとなくわかるのですが、
「なぜ」については答えようがない学問なのです。
それについては、あとでもう一度よく考えてみるとして、
ここで科学にはまったくドシロウトの私が、疑問に思うことをあげてみましょう。
「科学」 については、いろいろな考え方がありますが、大ざっばにいうと、次のようなことになりそうです。
@まず仮説をたてる。
A次に実験して、それが正しいかどうかを確かめる。
B実験の結果、ある程度正しそうだということになると、
一応、それを定説として、それにもとづいていろいろな研究を進める。
@仙の「仮説」というのは、まだわかっていないことがある場合
「ひょっとして、 00かもしれない」と説をたててみる、ということですが、ここで問題なのはAの部分です。
科学では「実験」を大切にするのですが、その実験については、次の三つの条件を満たさなくてはならない、
ときめているのです。
これは「科学」という学問ができたときからきめられた、基本的な約束事で、
これにあてはまらないと「科学としては認めない」という厳しいものです。
1.実験を確認する人は、あくまでも客観的に判断しなくてはいけない。
2.実験は同じ条件のもとで誰が何回やっても、同じ結果がでなくてはいけない。
3.そうした実験結果にもとづいて、数式であらわされなくてはいけない。
(3.については、生物学のような科学はのぞく)
ところが、こうした条件を一つずつ、よく考えてみると、かなりムリがあるように思えるのです。
まず1.ですが客観的に判断する″というのは、人間である以上「ほとんどムリ」ということがあります。
ある実験を確認する″ということは、なんらかの形で、人間が目で見る″ことが必要です。
たとえば、直接、目では見えない]線″のようなものも、「メーターがふれる」とか
「レントゲン装置にうつる」とかして、最後には人間が見る≠アとで確認するしかありません。
ところが見る≠フは、あくまでも人間ですからいろいろと個人差があります。
そのとき、その場の環境にも左右されます。
たとえば、ある有名大学の教授、というエライ人でも、朝、家を出がけに夫婦ゲンカをした≠ニか
風邪をひいて体調が悪い″というときは、ふだんのときより判断力が鈍ってくるかもしれません。
人間ですから、感情をまったくなくす……というのもかなり難しいでしょう。
どんなに厳格な博士でも、やはり心のどこかで「実験の結果はこうあってほしい」と
かすかに願っていないとはいえません。
そして、そのような精神状態でみるとき、それが実験結果に影響しない、とはいいきれないのです。
科学とならんだ現代文明のもう一つの柱(資本主義)とは、なんでしょうか?
難しい理屈を抜きにしていえば、
利益……つまりお金もうけを中心としたものの考え方で社会が動いていくシステムといえるでしょう。
私たちの生活をふり返ってみると、みんなお金もうけになんらかの関係があります。
会社からもらう給料や、バイトをして稼ぐお金、それでなにかを買う場合など、
みんなお金とお金もうけがからんでいるのです。
こうしたお金もうけを中心としたシステムのプラス面とマイナス面はどうでしょうか?
プラス面としては「競争原理」ということがあげられます。
これは、みんながそれぞれ「お金もうけがしたい」と思ってお互いに競争しあうので、
いろいろな面でその人の能力が発揮され、その結果として社会が進歩するといわれているものです。
確かに、いろいろな企業が競争しあうために、よい物が安く手に入ったり、
よりよいサービスが得られるようになる、というプラス面はあります。
が、はたして本当にそれが社会の進歩につながるかどうかはわかりません。
「社会の進歩」とはなにか? ということにも関係してくるからです。
私たちの住む社会の場合、それは現代西欧文明の進歩ということになります。
で は、現代西欧文明は? というと、それは資源をたくさん消費して科学と技術の力で、
「より楽で、便利な生活をしよう」という文明です。
ところが、たくさんの資源を浪費すれば、当然のことながらたくさんの公害が発生します。
そしてそれは地球の環境汚染にもつながります。
こうした大きな視野でみた場合のマイナス面を考えに入れたうえでないと、
単純に社会が進歩すればいいというわけにはいかないでしょう。
では、お金もうけを中心としたシステムでもっとも大きなマイナス面はなにか?
というと、それは、お互いに競争でお金や資源を奪いあうために、
結局最後に「泣きを見る」人がでてくるということです。
ある一つの社会の中で、誰かが得をすれ ば誰かが損をするのは当たり前です。
その社会の中にある資源やお金が無限であれば問題はないのですが、当然限られています。
つまり、ある会社が「もうける」ということは、ほかの会社が「損をする」。
誰かが「大学受験に合格」すれば、別の誰かが「落ちて浪人する」ということなのです。
そしてお互いに「自分だけは競争に勝とう」「自分だけはお金もうけしよう」と考えて争う。
そこには「人間らしい心」などというものが入ってくる余地さえなくなってきてしまいます。
その結果、
このシステムは競争に勝つ側も負ける側も両方とも不幸になってしまうという
宿命みたいなものを背負っているのです。
それともう一つ、西欧近代文明というのはつねにたくさんのお金が使われ、
たく さんの資源が消費されないと、うまくいかない仕組みになっているということです。
最近の日本では「不景気かぜ」が吹きまくっていて、みんなが、お金を使わないように、と節約しています。
そのおかげで、物が売れません。すると、物を売っている会社はもちろん、それをつくっている会社も困ります。
工場は、物をつくっても売れないからつくらないようになります。
すると、そこで仕事をしていた人はクビになります。
物を売る会社も、もうからなくなるので、やはり従業員をクビにしなくてはならなくなります。
すると、失業した人たちは、当然、お金がないので物を買うことができません。
そうすると、物を売っている会社も、つくっている会社も、もっと困って倒産しなくてはならなくなる、
というふうにどんどん悪いほうへ悪いほうへと向かっていってしまうのです。
世界の経済も同じような状態で、資本主義経済のもとでは、どんどんお金が使われ、
物はどんどん消費されないと成り立たない仕組みになっているのです。
そして、いちばん大きなお金が使われるのは、じつは戦争なのです。
1991年の湾岸戦争ではいったいどのくらいのお金が使われたのでしょうか。
アメリカの軍事専門家が分析したところによると、
湾岸戦争の初日に米軍が使った戦争の費用は、少なくとも670億円にのぽるというのです。
たとえば、アメリカ国防総省は、巡航ミサイルを100発以上発射したと発表していますが、
これは1発あたりが1億6000万円にもなるのです。
わずか1日で670億円ものお金が消えてしまうとは、なんとバカバカしい無駄遣いでしょうか。
しかもそのために多くの人たちが殺されたり、ケガをして苦しむのです。
でも資本主義をシステムとしている社会では、しよつちゅう戦争を起こしていないと、
世界じゅうが不景気になり、にっちもさっちもいかない状況になってしまうのです。
これは、現代西欧文明の抱えた悲しい宿命ともいえるでしょう。
こうしたさまざまな環境汚染に加えて、人口問題という、いちばんやっかいな問題があります。
世界の人口は、現在、57億人近くといわれています。
それが、2000年には、62億人を超え、2050年には、なんと100億人にもなるというのです。
なぜ、このようなことが起こるのか?
人口の増え方を調べると、やはり産業革命を境に、大量生産で物がどんどんつくられはじめてから、
ものすごいスピードで増えてきているのです。
このまま科学技術が発達し、たくさんの資源を使って、たくさんの物をつくりだし、
たくさんの物を捨てる、ということを続けていればどうしようもなくなることは目に見えています。
しまつの悪いことに、いま人口が増えているのは95パーセントが開発途上国、という問題です。
こうした国々では、非常に貧しい生活をしています。
満足に食事もできず、住居さえもない。教育を受けることもできません。
そういう国で人口が増えれば、この状態はもっと悪くなるでしょう。
現在、世界の人口の70パーセント以上が、こうした開発途上国に住んでいて、
残りの30パーセントたらずが先進国、という割合になっていますが、その貧富の差は恐ろしいほどです。
途上国の人たちの年収は、先進国にくらべて10分の1以下。
これを食糧におきかえると、開発途上国の人々は日本人の食べるカロリーの10分のl以下しかとれていません。
つまり、日本人一人の食べ物で、途上国の人10人が生活できるということになるのです。
ソマリアの難民は、1日にお碗1杯の雑炊を口に入れるのがやっと、といいますから、こ
れよりももっとひどいかもしれません。
石油その他のエネルギーの消費量でくらべると、差はもっと広がります。
日本人一人あたりが使うエネルギーの消費量は、なんと途上国の人の60倍にもなります。
なぜ、このように貧富の差が広がってしまったのでしょうか?
それを考えるには、まず私たち先進国が使っているたくさんの資源を、どこからもってくるかをみてみましょう。
現代西欧文明を支えるためには、
石油や石炭、天然ガスや原子力発電所用のウランといったエネルギーになる資源が必要です。
そのほかにも、家をつくるときの木材や、電車や自動車をつくるための鉄、その他の金属類もあります。
こうした資源は、いったいどこからくるのか?
というと、もちろん、それは地球上のどこかからとりだしてくるのです。
では、そうした資源はいったい誰のものでしょうか?
公正にみれば、
それは全人類、いや人間ばかりではなく、この地球上に住むすべての生物の共有の財産といえるでしょう。
つまり、地球上の生物みんなが、平等にそれを使う権利をもっているはずのものです。
ところが、先進国とよばれる国々は、軍事力やお金の力で、ムリやりそれをたくんとってきてしまいます。
とられたほうの国はどうなるか、というと残されたわずかな資源を奪いあうしかありません。
食糧も資源の一つです。
先進国の人たちが、たくさんとってしまえば、残った食糧を、そのほかの国の人たちがとりあうしかありません。
その競争に負けた人たちはどうなるか? というと、飢え死にするしかないのです。
そしてそれはもう現実に起こつています。
私たち先進国の人間は、毎日食べたいだけ食べ、食べきれずに残した食べ物をどんどん捨てています。
先日ある新聞に、次のような記事が載っていました。
『帝国ホテルで、1日につくられる食事のうち、約半分は毎日捨てられる』
これは、考えてもそら恐ろしいことです。
が、実際に、私たちの日常生活の中でも、同じようなことがおこなわれています。
ところが、その同じ瞬間、同じ地球上のどこかでは、毎日大勢の人々が飢え死にしているのです。
国連児童基金(ユ二セフ)が発表した報告によると、毎日4万人の子どもたちが、
この地球上のどこかで餓死、または餓死寸前の状態にあるというのです。
子どもたちだけでこの数ですから大人も入れると10万人単位になるのではないでしょうか。
こう考えてくると、先進国とはいったいなんだろう?
という大きな疑問にぶつかります。
武力やお金の力で、ムリやり共有の財産をかっぱらってきてしまうというのは、
ある意味では強盗団のしわざともいえるのではないでしょうか。
私たちは日ごろ、先進国の一員であるということに、ある種の誇りをもってきました。
でも、その実体が強盗団の一味だったということになると、考え直さないわけにはいきません。
同じ地球の上に住みながら、いっぽうは快適で便利な生活を楽しみ、
もういっぽうでは大勢の人たちが毎日餓死してしまう。
このような不合理なことがあってよいものでしょうか。
こうしたわけのわからないシステムが、そういつまでも続けられるとは思えないのです。
もっとしまつの悪いことには、これまで開発途上国といわれていた国の人々が、
みんな先進国の仲間入りをしたいと考えはじめたのです。
その意味では、ソ連の崩壊というのは、プラスよりもマイナス面のほうが大きかったといえるかもしれません。
これまでソ連の人々は、鉄のカーテンとよばれた報道管制の中で、限られた情報しか得られませんでした。
ところが、ソ連の崩壊後、 情報が公開されてみると、西欧諸国の暮らしぶりがわかってしまいました。
その結果「私たちもあのような生活がしたい」と思う人が増えてきてしまったのです。
旧ソ連領の人たちばかりではありません。
開発途上国とよばれる国の人たちはみんなが「先進国の仲間入りをしたい」、
いいかえると強盗団の一味に加わりたくなってしまったのです。となると、どういうことが起こるでしょうか。
地球上の限られた資源が、ものすごいスピードで消費され、なくなっていってしまう、
と同時に公害も大量に発生するようになり、環境汚染が幾何級数的に悪くなっていくことは、目に見えているのです。
「現在、地球上でなにが起こっているか?」について、ざっとみてきたわけですが、
こうしてみると、私たち人類がこれまでにしてきたこと、そしていまもなお続けていることのほとんどすべてが、
なんというおろかでバカバカしいことばかりなのかと思われたことでしょう。でも、これが現実なのです。
なぜ、このようなバカげたことになってしまったのでしょうか?
それはまず、第一に、お金もうけを中心とする社会のシステムが長いこと続いてきたからです。
誰もが自分の目先の利益のために、夢中になってつき進んできた。
競争原理の中で、お互いに少しでも多くのお金をとろうと争い、
奪いあうことしか考えなかったからだといえるでしょう。
第二には、科学と、それによる技術の進歩を、あまりにも過信した、ということがあるのではないでしょうか。
私たちはこれまで「科学技術が進歩すれば、人類は幸福な生活を送れる」と信じこんできました。
でも、その結果がこれなのです。
一つには、前にも述べたように、科学や技術が人間の「心」というものを、
できるだけとり入れないようにしてきたということがあります。
だから科学技術は、人間の幸せよりも、お金もうけのために使われることのほうが多かったといえるでしょう。
よく考えてみると、科学というのは一つの学問にすぎません。
その学問が、あくまでも客観的な立場から研究を進める、というのはまちがっていません。
ところが私たちは、いつの間にかこの「科学的なものの考え方」を、日常の生活の中にまでとりこんでしまった。
そこに、大きなムリがあったのではないでしょうか。いうまでもないことですが、社会は人間で成り立っています。
そこには「人間らしい心」があり、自分の幸福ばかりではなく、
他人の幸福や、人間以外の生物に対する思いやりなども必要なはずです。
なのに科学的なものの見方を、この社会の中にとり入れてしまうと、
そこには、人を思いやる心とか、人間としての心などというものは、
科学的ではないとして排除されてしまうことになりかねません。
科学は心″をあやふやなものと考え、物質″ こそが唯一、客観的に、確認することができる研究の対象だ、と考えてきました。
そこから人間の心よりも、物やお金のほうが大事という考えが生まれてきたのです。
もう一ついえば、科学は比較″や分析″を大事にします。
いろいろな物を研究するとき、ほかの物とくらべたり、それを分析していって、
いちばんおおもとにはどのようなものがあるのかを調べようとします。
分析というのは、ある物体なら物体を細かく分けていく、つまりバラバラにしてしまうということにもつながります。
こうした考え方は、ある意味では便利なのですが、私たちの社会生活に入ってくると大きなマイナス面になります。
それは、人間一人ひとりを孤立化させてしまうということです。
よく考えてみると、私たちはいつも「他人」と 「自分」とを比較して分析しています。
つまり「自分はAさんよりも頭がいい」とか「自分はBさんよりお金を持っている」とか
「Cさんは自分よりも異性にもてて、うらやましい」とか
「Dさんは自分よりも勉強ができてくやしい」などというふうに、いつも他人と自分とを比較しています。
その結果、「自分のほうが優れている」とか
「相手のほうが優れているのでうらやましい」とか「にくらしい」になってしまっているのです。
こうした考え方は、私たちの日常生活の中のすみずみにまでいきわたってしまっています。
会社や学校や家庭など、どこでも、自分と誰かをくらべて、ああだ、こうだといっているのではないでしょうか。
この考え方でいく限り、本当の意味で「人を愛する」などということは、永久にできないでしょう。
人と自分を比較することからは「競争」しか生まれてこないからです。
「協調」とか「他人と自分を一心同体と考える」などと考えるのは、とうていムリなのです。
「競争」は、これまで大変よいことのようにいわれてきました。が、それは大きな錯覚なのです。
競争から生まれるのは、お互いを敵とみなす、という考え方です。
つまり、そこにはあくまでも自分と他人とをはっきりと区別して、
お互いに相手を打ち負かそうとする心が働くだけなのです。
それは私たちの身体でいえば、60兆個ある細胞の、一つ一つが争って、お互いに摩擦をくり返すようなものでしょう。もし細胞がそれぞれ競争しあえば、身体の各部分は勝手な動きをしてしまい、
全体としてバラバラになってしまうことでしょう。
また、お互いの摩擦のために熱がでて倒れてしまうかもしれません。
が、実際は、私たちの身体の細胞は、一つ一つが全体を代表していて、身体がどのようなことをしたいか、
ということを一瞬にして知り、協力しながらそれぞれの役割を果たしてくれています。
人間一人ひとりは、じつは身体の細胞一つ一つと同じようなもののはずです。
顔、形や、性質がちがっていても、もともとは同じものであり、そしてそれぞれの役割に応じて、
人類全体が目的とする方向へ、無意識のうちに動いていくのが、本来の姿ではないでしょうか。
競争原理というのは、考えてみると、人類の文明の歴史の中で、
支配者と支配される人とにわかれたときから考えだされた巧妙なトリックなのかもしれません。
つまり、支配する側が、
どのようにして、うまく支配される人をコントロールすると考えたときに編みだした便利な方法かもしれないのです。
支配される人の間で、互いに競争をさせればコントロールしやすくなるからです。
戦争などは、そのもっともいい例といえるでしょう。
これまでの歴史の中で、戦争を起こしたのはいつも支配者であり、
それによって死んだり、ケガをして泣いてきたのはいつも支配される側の人たちでした。
支配者自身が戦争にでかけていって死ぬことは、めったにないのです。
現代文明の初期のころは、王様自身が戦争にでかけていって、ごくたまに死ぬことがあったかもしれませんが、
近代になってからは、支配者は、一度も戦場へ顔をだしたことがないはずです。
そして、兵士たちには階級を設け、手柄を競わせる。
戦争をしなければならない理由をあげるときにも、必ず使われるのが、競争原理です。
自国と他国を比較して分析し、競争心をあおるのです。
現在のように戦争がない時代は、人々をうまくコントロールする方法が、
もっと巧妙にソフィステイケイトされています。
それだけに私たちはなかなか気づかないのですが、注意深くまわりを見回してみると、
なるほどと思うことが多いことでしょう。
「あいつにだけはバカにされたくない」とか「あいつよりは偉くなりたい」とか
「あいつより金持ちになりたい」などなど、
私たちはいつも他人と自分を比較して、
他人をうらやましく思ったり嫉妬したりして負けたくないと頑張っているのです。
結果的には、そういう私たちの競争心をうまく利用されてしまっていることがたくさんあるのではないでしょうか。
でも、これからの社会は、そのような古い考え方では、もうどうにもならない状態にきてしまっています。
いままでとはまったくちがうものの考え方が、いま絶対に必要なのです。
それは、ニューエイジサイエンスに近い考え方です。
「私と他人」と考えるよりも「私も他人も」と思う心が大切ではないでしょうか。
「靴のひも理論」のように、ひもの一か所を引っばれば全体が影響されて動くのですから
私と他人〃と分けて考えていたのでは、話になりません。
他人とはいえ、その人のどのように小さな行動も、私をはじめとする全生物に影響を及ぼしてくるのですから。
見
塩化ナトリウムは食塩ではありません ●まえがき
専売制のもと、私たち日本人は、長年、精製された塩を食べさせられてきました。
精製塩とは、すなわち純度99・5%以上の塩化ナトリウムです。
つまり、他のミネラルはほとんどそぎ落とされてしまった偏った塩です。
この極めて高純度な塩化ナトリウムは、本来食べるための塩″ではありません。
それは工業用につくられた、いわば化学製品に近いものなのです。
絶対に「食塩=塩化ナトリウム」ではないと私は考えています。
すべての食品には必ずといっていいほど食塩が含まれています。
しかしその食品類から必須ミネラルが失われ、
それによってミネラル体液としてのバランスが大きく崩れてしまいました。
そして、その結果、免疫力が低下したり、体質が変わり、感染症や生活習慣病に
かかりやすくなってしまったことは否定しようがありません。
高血圧の原因は塩の摂り過ぎ、塩は体に悪い……と、多くの皆さんが信じて疑いませんが、
それが何の医学的根拠もないことはすでに明らかにされています。
体に悪いのは、精製塩=純度99.5%以上の塩化ナトリウムであり、決して食塩そのものではないのです。
アメリカでは、塩化ナトリウムを人間に一番近い霊長類「猿」に
一生涯食べさせると高血圧になり「死に至る」と発表されており、
もはや「塩化ナトリウム単独摂取」=「死」は、周知の事実となっています。
しかし、それは塩化ナトリウムだけの場合であって、カルシウム・マグネシウムやカリウムなど、
他のミネラルが含まれるとその限りではないこともわかっています。
細胞レベルでいっても、塩化ナトリウム単独摂取は直接「死」に結びつきます。
かたや、他のミネラルもバランスよく含まれている場合には、細胞は賦活します。
これだけはっきりしたデータが出ているのにもかかわらず、
塩化ナトリウムだけの塩を食べろというのは、どう考えてもおかしいとは思いませんか?
では、自然塩、天然塩といわれるような昔ながらの製法でつくられた食塩だったら、
体にいいかというと、それも違います。
例えば、海水から無理なく取り出された塩は、確かに各種ミネラルをたっぷり含んでいます。
しかし、それだけでは、体に良いとは決していえません。
海水に含まれるミネラルのバランスは、人体のそれとナトリウム含有がほぼ同じであるだけで、
あとはまったく異なります。
ですから、人間が海水を飲み続けたなら、やはりその先には「死」が待っているだけです。
これは、生理的食塩水が、弱った人間の体を一時的には元気にしてくれても、
長く使えば生命を脅かすのと同じです。
人間の体にとってもっとも良い塩″とは、生体組成と同じミネラルバランスをもった塩です。
すなわち塩1gを100mlの水に溶かしたときのミネラルバランスが、
体液組成に近いことこそが、人体に適合し、健康を増進する食塩の条件なのです。
さらに、その場合、いずれのミネラルもイオン化される(電解質になる)こと、
わかりやすくいえば完全に水に溶けることが必要です。
例えば、見かけのカルシウムの量がどんなに多くても、
それがイオン化されない結合粒子やコロイダル粒子(目に見えない結合小粒子)では、
細胞や組織に作用することができません。
バランスよく含まれたイオン化して電解質になるミネラルが体にしっかり吸収されることが大切なのです。
現代人は病んでいます。その大きな原因はミネラル不足であり、
ミネラルのアンバランスがそれを助長しているとしかいいようがありません。
精製塩を良しとし、限り無く純度の高い塩化ナトリウムをつくり続けてきた方々は、
常に「ミネラルは他の食品で摂ればいい」とおっしゃいます。
しかし、現実的には、他の食べ物からミネラルを摂って、バランスをとることなどがきわめて難しい時代なのです。
なぜなら、私たちが日頃口にしている野菜や果物、その他ミネラルが豊富に含まれているといわれている食品は、
その生産過程、加工過程において実は著しくミネラルが減少してしまっているものばかりだからです。
はっきりいって食品成分表のミネラル含有量はほとんど当てにできません。
一生懸命に計算して、1日のミネラル摂取量はこれで大丈夫と思っていると、とんでもありません。
第一、ミネラルのなかには、カルシウムなど、ほとんど食物からは吸収されていないものもあるのです。
それでも、ミネラルは食べ物から摂ればいいというのでしょうか。
だからこそ私は、毎日必ず料理に使われる食塩こそ、そのミネラルバランスの整ったもの、
体液とあったものを選ぶべきだと、強く主張するのです。
また、ミネラルバランスの整った食塩は、素材自体の品質をも高めます。
すなわち現代のミネラル不足の食品にミネラル分を与えることで、食べ物本来の味を引き出します。
このように、ミネラルバランスの整った食塩は、相手(食品)をも変えるのに、
その相手でバランスをとれというのは、あまりにも辻棲が合わないではありませんか。
やはり、ミネラルは中心的調味料で補うことが極めて大切なことなのです。
今年4月、塩は完全自由化となりました。
私たちは押しっけられた専売塩ではなく、産地や製法などバラエティ豊かな食塩の中から、
好きなものを選択できるようになりました。
しかし、それはまた、菌やカビ、重金属、放射性物質などが含まれていたり、
問題視されている凝固防止剤が使用されていたりという、さまざまな問題もはらんでいます。
単に包装がよいなどイメージで選ぶのではなく、確かな目をもって選ぶことです。
私は、皆さんに賢い消費者になっていただきたい、そう思うのです。
塩が必要不可欠の食べ物であることは、誰でも知っています。
しかし、この数十年のあいだに、塩は健康の大敵、最大の悪というレッテルを貼られ、
皆から疎まれる存在になってしまいました。
すなわち、高血圧症、脳血管障害、心臓病、腎機能障害、果ては胃ガンにいたるまで、
さまざまな生活習慣痛の大きな要因は、塩の摂り過ぎにあるというわけです。
旧厚生省の『疾病予防と栄養に関する検討委貞会』がまとめた、ガン予防のための食生活では、
真っ先に「高塩食品を避ける」があげられています。
そして、医者は口を揃えて、私たちに「健康になりたいのだったら、酒、タバコ、そして塩を減らせ」といいます。
栄養士も同様なことをいいます。
「味噌汁は1杯(2杯も飲むと塩分の摂り過ぎ)、刺身につける醤油はサラッと、ソースはドバドバかけるな」
私も栄養士ですから、よく知っているのですが、
実際、教室では「その一つまみの塩が寿命を縮める」と講義されています。
しかし、では醤油や味噌の塩分含有量は何%なのかと問われて、答えられる栄養士や調理師はまれで、
ほとんどの人は大まかにしかわかっていません。
醤油一つとっても、薄口醤油、膿口醤油、低塩醤油、減塩醤油があり、
かつメーカーによってもそこに含まれる塩の量はバラバラですから、
これらをすべて把握しているというのは、よほどの勉強家、努力家だと思います。
多くの栄養士、調理師は、まるで宗教の教えのように「減塩が健康の近道」と信じ、
なるべく塩を使わない美味しい料理の工夫にやっきになっているようです。
でも、本当のところ、塩分が一定の量に達していない料理なんて、まず美味しくは感じられませんよね。
ご存じのように、調味料としての塩は、塩味をつけるという役割のほかにも、
いろいろを用途、目的で使われています。
@防腐(いろいろな塩蔵品)
Aたんばく熱凝固の促進(焼き魚、焼き肉など)
B浸透圧により食品の水分を抽出する(きゆうりもみ、漬け物など)
Cポリフェノールオキシターゼ(酸化酵素)の作用を抑え褐変を防ぐ(リンゴの褐変防止など)
Dクロロフィル(葉緑素)の退色防止(葉物をゆでるときなど)
E小麦粉のグルテンの形成を促進する(パン、あん頬などに)
F粘質物(ぬめり)の除去(さといもなど)
G魚肉のすり身の弾力を増す(練り製品、ハンバーグなど)
H氷に入れて水の氷点を下げる(家庭用のアイスクリームの製造など)
IビタミンCの酸化を遅らせる(ジュースなど)
Pグロブリン系のたんばく質の溶解性を高める
K人体体液の補給に欠かせない
このように、食べ物を美味しく感じさせ、さまざまな役割をもって使われ、しかも人体生理的に不可欠である塩。
その塩がなぜ目の敵にされるようになったのでしょうか。
それは、そもそも、塩=塩化ナトリウム(NaCl)としてしまったことに誤りがあったと私は思っています。
ある雑誌で『食塩文化考』という特集が組まれました。その中でフードコンサルタントの岸朝子氏は
『減塩の食生活〜一日一〇グラム摂取目標は可能か〜』という原稿を寄せています。
岸氏は、食塩は人間にとって大切なものと説き、しかし、
「一方、食塩摂取の害としてあげられるのが高血圧。
日本人の国民病ともいわれている脳卒中は、食塩の摂り過ぎによる高血圧が原因といわれだしたのは、
昭和四十年前後。
とにかく、栄養所要量にナトリウムが一日一五グラムとあった時代に、
東北地方では一日二五〜三〇グラムの食塩をとっていた。
(略)それまでのトップであった結核を抜いて昭和二十五年ごろから四十五年まで、
日本人の死因のトップは脳血管疾患であった。
(略)脳出血、脳梗塞のどちらにも、きびしい寒さは影響するが、
食の関係からいわせてもらうと塩分の摂り過ぎが高血圧を招き、動脈硬化を促進したことが大きな原因とみられる」
「脳血管疾患がトップの座をすべり落ちたのは、医療の進歩・定期検診による早期的発見なども貢献しているが、
保健所などの地域ぐるみの食事指導が大きな効果をあげている。
最近では、また増加のきざしが見られるとはいっても、平均値が一二グラム近くになったのはりつばだと思われる。
(略)とはいっても、日本人の食塩摂取日量の目標は一日一〇グラム以下だから、
まだまだ減塩の努力が必要なことはいうまでもない」 と述べています。
こうした見解は今も根強く残っています。
もちろん、高血圧症や腎機能障害といった疾患を抱えている人は、減塩しなくてはいけません。
しかしながら、それは塩化ナトリウムだけの塩を減らしなさいということであって、
後述するミネラルバランス塩に関していえば、ある程度は摂ったほうがよいのです。
さて、高血圧症には、本態性高血圧症と二次性高血圧症があり、
このうち高血圧症のほとんどを占めるのが本態制高血圧症です。
本態性高血庄症は、精密検査をしても血圧を上昇させる原因が認められず、
原因が特定できないものをいい、これまでも遺伝的な要素が強いと考えられてきましたが、
最新の医学情報によれば、「大規模一般集団を用いたACE遺伝子多型の検討で、
ACEのDD型が日本人男性に特異的に高血圧と関連することが確認された」と報告されています。
すなわち、塩摂取量の変化で血圧が上下する塩感受性(塩に敏感に反応する)の人はいるにはいますが、
それは少数派(高血圧患者の約30%)で、大半は血圧が変化しない塩抵抗性であり、
本態性高血圧症の成因はむしろ遺伝子レベルの問題だということです。
また、このことはほとんど話題にされませんが、
減塩で血圧低下を示す人々の比率と同じ程度に血圧上昇を示す人々がいる、という調査結果もあります。
塩の感受性ということをことのほか問題にするのであれば、
少ないとはいえ減塩が危険となる人がいるということも同様にいうべきでしょう。
こうしたことを一切無視して、「高血圧症の原因は塩の摂り過ぎである」というのは、
問題があるといわざるをえませんし、原因とされる「塩」は塩化ナトリウムを指しているものです。
腎臓は、尿の生成はもちろんのこと、ホルモンを分泌して生体の恒常性を維持する役割も担っています。
例えば、後述する酸・塩基平衡の調節(pH=水素イオン濃度の調節)や体液量・浸透圧の調節、
これに関連して血圧、ナトリウムとカリウムの調節、さらに赤血球生産の調節、カルシウムとリンの調節など、
すべてが腎臓の働きによるものです。
尿生成の基本は、腎小体でのろ過と、尿細管での再吸収と分泌にあり、ろ過された原尿は、
尿細管に送られ、ここで99%が再吸収されます。
再吸収されるのは水や塩素のような陰イオン、・ナトリウム、カリウム、カルシウムなどの陽イオン、
それにリン酸イオン、硫酸イオン、ブドウ糖・果糖、アミノ酸、ビタミン、ホルモンといった体に必要なものだけで、クレアチニン、尿素、尿酸などの不必要な物質は、再吸収されずに、排泄されます。
また、必要な物質でも、血液中に過剰であれば再吸収されないしくみになっています。
この尿生成は血圧と密接な関係にあって、血圧が下がると機能することができなくなってしまいます。
そのため腎臓は血圧が低下すると、あの手この手で、血圧を上げようとします。
その一つが、尿細管からのナトリウムイオンの再吸収とカリウムイオンの排泄の促進です。
その結果、水がナトリウムイオンの再吸収に伴ってより多量に再吸収され、体内の水分量が増え、
血圧が高められるというわけです。
ところが、腎不全でこれらの調節作用がうまくいかなくなると、
体の中の余分な水・ナトリウムを排泄することができなくなつてしまいます。
腎疾患の多くの症状が乏尿または無尿、むくみ(浮腫)を伴うのはこのためです。
こういう状態のときに塩化ナトリウム(NaCl)を多量に摂取すれば、症状は当然悪化します。
腎機能障害で厳しい減塩を強いられるのはそのためで、
まさに問題となるのはNaClのNaとそれに結びついているCl(塩素)なのです。
ここで、皆さんにお願いです。
まずは第一段階として、頭のクリアボタンを押して、「塩=悪者」の図式を完全に消去してください。
「とはいえ、やはり塩分の摂り過ぎは体によくないのではないか……」
今、この瞬間、多くの方々が、こう思っているのではないでしょうか。
もちろん、度を越した大量摂取はいいはずがありません。
塩分のみならず、他のどんな栄養素でも、過剰に摂れば必ずそこに弊害が起こつてきます。
誤解しないでいただきたいのは、
それは「味がぼやけたような減塩食に塩気を加えて美味しくいただく」といった
レベルのことでは決してないということなのです。
むしろ問題は塩の中味〃です。
例えば、「栄養バランスのよい食事」は健康の基本だということは、誰でも知っています。
どんなに体にいいといわれるものでも、それだけを食べていればいいというわけではないでしょう。
また、肥満に大敵だからといって、一切脂肪分を摂らなかったらどうでしょう。
体は必要なものを必要な分だけ摂り入れることで、健康を維持していられるのです。
つまり、何事もバランスが大切だということです。
実は、塩が悪者ではなく、健康のための塩であるためには、その中昧のバランスがとても重要だつたのです。
最近、スーパーやデパートの食品売り場で、さまざまな食塩が売られていることにお気づきでしょうか。
産地も日本全国はもちろん、果ては中国、メキシコ、オーストラリア、イタリア、
タイ、インドネシア、フィリピン、クリスマス島、モアイ……と、全世界の珍しい塩が並んでいます。
そして、そのほとんどが「美味しい塩」「体にいい塩」を謳い文句にしていることも特徴的です。
ご存じのように、食塩は長いあいだ専売品(明治38年専売法施行)で、専売公社が一手に製造、販売してきました。それが1997年4月に法律改正がなされ、専売解除となったことにより、いろいろな食塩が出回るようになりました。
そして、今年2002年4月には、5年間の助走期間を経て完全自由化にいたり、
食品衛生法に基づいて塩の生産は自由に行えるようになったのです。
スーパーやデパートの塩コーナーの拡張には、こんな背景があったというわけです。
食塩が肉や魚、野菜と同じように一般食品の仲間入りを果たしたことにより、
1300億円を超える巨大市場が日本に生まれました。
その経済効果たるやすごいものだと思いますが、
私はまったく別な観点から、塩の自由化を歓迎している者の一人です。
別な観点とは、申すまでもなく健康″です。
先ほど、「塩が悪者ではなく、健康のための塩であるためには、その中昧のバランスが重要」といいましたが、
これからはそういう塩をつくる自由も、選ぶ自由もあるということなのです。
はっきり申し上げます。
私たちがこれまで使用してきた精製塩″である専売塩は、このバランスという点で最悪です。
偏った塩は、長期に摂り続ければ、必ず体に何らかの障害を生じさせます。
そうなのです。
「塩=悪者」説の主人公は、実はこの偏った塩精製塩″であり、それは明らかに健康によくない代物なのです。
では、一体、精製塩とはどんなものなのでしょうか。
それこそが純度99・5%以上のNaCl=塩化ナトリウムなのです。
太古以来、日本人は海水から塩をつくつてきました。海水の水分を蒸発させて塩の結晶を得ていたわけです。
かつて昭和30年代頃までは、海辺の浜沿いに塩田が広がり、
日本の風景の一部になっていたことを思い出される方もいらっしやるのではないでしょうか。
ところが、日本専売公社は昭和47年に塩田法を廃止し、すべての製塩を「イオン交換膜法」に切り換えました。
高度経済成長にともなう工業用の塩の需要が急激に高まったからです。
このイオン交換膜法とは、海水槽の中に陽イオンと陰イオンの交換膜を交互に入れ、
両端から直流電気を流して、ナトリウムイオンと塩素イオンを分離して集め、
得られた濃い塩水を煮詰めて塩をつくるというものです。
こうしてつくられた塩は、塩化ナトリウムの純度が極めて高く、
しかも安価で、安定的に大量生産が行えることから、工業用原料として使うには大変都合がよかったのです。
ちなみに、全国で消費される塩の量は、年間約900万トン。
そしてこのうち、家庭用や食品加工用に使われる塩はたったの15%前後。
80%近くはソーダ工業用に使用されているのです。
ソーダ工業とは、塩を分解して、苛性ソーダ、ソーダ灰、塩素などを取り出し、
これを用いてさまざまな化学製品をつくりだす工業分野で、
例えば苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)からは石鹸、化学薬品、アルミニウム、紙・パルプなど、
ソーダ灰(炭酸ナトリウム)からはガラス、重曹、化学工業原料などがつくられます。
また、塩素の最も大きな使い道は水道水の殺菌剤(次亜塩素)。
ほかに塩化ビニールやさらし粉、エレクトロニクスなどの先端技術にもー役買っています。
どこか変だと思いませんか?
人間の口に入る食塩と工業用の塩が同じだなんて。
私たちは長いあいだ何の疑問ももたずに、それを食卓にのせていたのです。
ちなみに、こうした傾向は日本のみならず全世界的なものです。
しかし、そうしたなかにあって、塩にはミネラルバランスが必要だといっている人も少なからずいます。
私たちは、とかく精製されたもの、純粋なものほど、何か価値があるように思えてしまうものです。
確かに、例えば金″の場合だったらそうでしょう。
しかし、人間が食べるもの″であるなら、
純度100%は価値があるどころか、体にとってはマイナスであるといえるのです。
そもそも、私たちが普段食べている自然界に存在する食べ物は、純粋なものなど、一つとしてありません。
それぞれが複雑な物質の構成を持ち、さらにバクテリアなど雑多な不純物をも宿し、
それで全体として一つのバランスある宇宙を構成しているといえるのです。
そして、それを口に入れる人間もまた、複雑、雑多な存在です。
決して、人工的につくられた純粋な食べ物、飲み物を摂ることで、健康にはならないのです。
純粋なものは、本来的に単一の作用しか持たないため、有機体のバランスを壊し、副作用をもたらします。
クスリの副作用はその典型例です。
純水は赤血球を破壊することが知られていますし、純酸素は日の網膜を溶かしてしまいます。
そして、高純度の精製塩は、高血圧など、さまざまな健康障害を引き起こすことになるのです。
前出の『食塩文化考』で、中本ひろみ氏(食物研究家)は
『食塩の種類と問題点〜ミネラル・バランスを中心に〜』と題した原稿を書いています。
「塩とは塩化ナトリウムのことというのが常識であり、
ミネラル類は、食物からとればよいと考えがちであるが、吸収されやすいミネラルは今の食品には不足している。
(略)ミネラルバランスは一つの食品ごと、一つの調味料ごとに考えなくては片寄った働きしかできない。
(略)食塩は食塩としての機能を考える時代となっている。
水にしても、水にミネラルは必要がない、他からとれるといっているのと同じである。
アメリカのNASA宇宙航空局の宇宙空間における、水、食塩、食事はいきづまっている。
水は汚れのない純水がよいと思い込まれている。
純水はミネラルをうばつていく水だから、当然体からミネラルがぬけやすくなる。
水は水の中に入れるミネラルと、水としての機能性を考えなくては正常な働きをしてくれない。
(略)ところが、純水を飲ませているために宇宙空間にいくと浮腫が起きやすくなり問題となっているが、
今度はその回復のため塩水を飲ませる実験をすることになっている。
純水に純粋な食塩(NaCl)を混ぜて飲ませたところで機能性は少なく、
かえって悪くなる可能性のほうが強いのである」
私もまったく同感です。
純度を競った塩〃と健康を考えた塩″は明らかに違うということを、私はここで声を大にして申し上げます。
では、具体的に人間の体にもっとも適合する食塩とはどんなものなのか。
ミネラルのバランスというけれど、一体どういうバランスがいいのか。
健康を増進するような食塩は本当にあり得るのか……。
ずばり、あります。
それは、人体組成と同じミネラルバランスをもった食塩です。
ミネラルバランスを整えた塩は結果的に減塩しているのと同じことになるのです。
次章からは、いよいよその核心に迫っていきたいと思います。
ここで問題の精製塩=塩化ナトリウムについて考えてみましょう。
塩化ナトリウムは、ナトリウムと塩素で構成されています。
すなわち、いずれも生命維持必須ミネラルです。
にもかかわらず、それだけを単独で摂り過ぎると、体のあちこちに悪影響を及ぼすのです。
ナトリウムの人体生理上の役割は、次のようなものです。
@筋肉の収縮と刺激
A神経の刺激感受性
B浸透圧の維持
C水分の代謝
D血液の酸、アルカリの平衡維持
G胆汁、膵液、腸液などのアルカリ性消化液の材料
しかし、これは他のミネラルもバランスよく働いてこそ発揮されるものなのです。
例えば、「浸透圧の維持」といっても、ナトリウムだけを大量に摂取して、
他のミネラルが不足していれば、
結果、血管を含め体の細胞を浸透圧で萎縮させ締め付ける一方の働きしかしないので、血圧は必然的に上昇します。
また、筋肉の収縮も、ナトリウムだけが行っているものではなく、ミネラルの連係プレーにょって行われています。
筋肉そのものの収縮は、
カルシウムが主に担当し、カリウム、マグネシウムがそれに伴って連係しているといった具合です。
さらに、後で述べるリンゲル液がそうであるように、
塩素だけの塩は陰イオンに偏り、酸性過多症に陥りやすいということがあります。
リン、塩素、イオウ、窒素などはどこまでいっても酸性ですから、
多く摂取すればするほど、体は酸性に傾いてしまいます。
ちなみに有機酸は陰イオンでありながら炭酸ガスと水になり、
人体の酸、塩基電解のバインダーとして重要な役割を果たします。
塩素は、体内でさまざまな栄養分と勝手に結びつき、多くの病気の原因をつくりだすことがわかっています。
例えば、コレステロールや脂肪が血管壁に付着、堆積するのも、塩素がそれらの有機物と結合し、
有害な酸性物質、いわゆる悪玉コレステロールなどを生み出した結果です。
また、塩素は、水分と反応して次亜塩素酸を生じます。
次亜塩素酸はさらに塩酸を分離して、単体の酸素、すなわち活性酸素を生み出します。
この活性酸素は、ガン発生の一大要因として最近重大視されていることは、ご存じでしょう。
一般に、通常の呼吸によって大気中の酸素がこの活性酸素に転化するのは、わずか数%に過ぎません。
また、私たちの体の中でも活性酸素がつくり出されています。
すなわち侵入してきたウイルスや細菌の退治を担当してくれるのが活性酸素や次亜塩素(HC−○)です。
よく「白血球が細菌をやっつける」といいますが、
厳密には、それは白血球が出す活性酸素によって、菌やウイルスがやっつけられるということなのです。
こうして役目を果たした活性酸素や発生起の酸素(0)はSOD物質によって中和され無害となります。
しかし、精製塩の摂取のように、体内に高純度の塩化ナトリウムが大量にダイレクトに送り込まれると、
ある種の化学反応が起こり、体内に活性酸素を大量に発生させる疑いが濃厚です。
こうした心配も、ミネラルのバランスを整えることで、ほとんど解消されます。
ただし、塩素もまた体内で多くの化合物の生成を担う一方、
消化液のベースなどとしても必須の物質であることを忘れないでください。
そこで「塩」です。塩は私たちにとって、一番ベーシックな調味料です。
味噌や醤油、ソースといった調味料にはもちろんのこと、マヨネーズやドレッシング、ケチャップなど、
ふだん家庭で味付けに使われるようなものには、ほとんどすべて塩分が含まれています。
もちろんレストランヤフアーストフードの食べ物も例外ではありません。
また、冷凍食品やインスタント食品、お惣菜、あらゆる加工食品に塩が使われていることもいうまでもないでしょう。
しかし、すでにお話ししたように、私たちがこれまで口にしてきた旧専売塩はミネラルバランスの極めて悪い、
というより塩化ナトリウム以外のミネラルがまったく入っていない、偏った調味料でした。
これでは、私たちの体の中のミネラルバランスが崩れてしまってもしかたないのです。
私は、塩は味付けのための調味料であると同時に「人体調味料」でなければならないと考えています。
ミネラルバランスを整えた味付けは、イコール人間の体のミネラルバランスを整える味付けです。
私は、有機酸ミネラルを応用することで、この理想ともいうべき食塩をつくりました。
それが、リンゲル組成塩=ミネラルバランス塩であることは、もう皆さんおわかりでしょう。
少し前になりますが、若者の間に「マイ・マヨネーズ」ブームが起こりました。
今の若者はマヨネーズが大好きで、何にでもマヨネーズをかけて食べるそうですが、
そのため外食するさいにも「マイ・マヨネーズ」を必ず持参して、出てきた料理にそれをかけるというわけです。
私などは、料理をつくつてくれた人に失礼ではないかと思うのですが、
彼らはどうやらそんなことには無頓着のようです。
それはさておき、だったらこの際、皆さんにマイ食塩″をもっていただくなんていうのは、どうでしょうか?
もちろん、その場合の食塩は、人体組成と同じミネラルバランス塩≠ナす。
生野菜のサラダがでてきたら、バッバッとミネラルバランス塩″を振りかけて食べましょう。
ちょっと塩気が足りないな、と思ったときも、
お店にある醤油やその他調味料を使わずにミネラルバランス塩〃で調整しましょう。
私は実際に実行していますが、基本調味料である食塩をミネラルバランスの整ったものに切り換えることで、
かなり体調は違ってくるはずです。
「この世の中から、今すぐに塩化ナトリウムの塩やミネラルバランスの悪い塩を追放しなさい」
とまではいいません。
しかし、食品業界や社会全体が、早くこのことに目を向けてくれることを切に願っていることは確かです。
そして、それぞれの家庭においては、極力アンバランスを避け、ミネラルバランスの整った食事、
味付けを考えていただきたいと思っています。
できあいの塩辛い食品(高純度の塩化ナトリウムを使った食品)にもミネラルバランス塩を加えてみてください。
もっとしょつぱくなってしまうと思いきや、どこか甘味が感じられ、マイルドになります。
●やっぱり「塩」が高血圧の原因ではなかった
リンゲル組成のミネラルバランス塩は、人体のミネラルバランスを正し、その機能を高める力が備わっています。
では、実際にどのような効果があるのか。ここでは具体的な事例をまじえながら、それをご紹介しましょう。
以前、フジテレビ系で放送されている冒からウロコ』というクイズ番組で
「減塩ブームのウソ、l%食塩水の驚異」というテーマが取り上げられたことがあり、
私は専門家の立場で、それに出演しました。
なかに、こんな問題がありました。
Q高血圧の原因でもっとも多いものは?
@遺伝
A肥満
B塩の摂り過ぎ
もちろん答えは@の遺伝であり、本態性高血圧が90%を占めているわけですが、
番組では五人に、実際に1日20gのミネラルバランス塩を料理に入れて、1週間のあいだ食べ続けてもらい、
血圧の状態を見ました。
結果は「変化なし」が二人、「下がった」が三人で、上がった人は一人もいませんでした。
「塩=高血圧の原因=悪者」ではないことは、読者の皆さんはすでに十分わかってらっしやると思いますが、
出演者の一人森下敬一氏は、
「(血圧の下がった人がいたのは)ミネラルバランス塩がもっている、
ナトリウム以下のたくさんのミネラル分(カルシウム、マグ、チンウム、カリウム、鉄他)が、
抹消血管を広げ血圧を下げたと考えてよいでしょう」 と説明しています。
ミネラルバランス塩を100mlの水に1g溶かした食塩水はリンゲル液と同じ、
すなわち人間の体液組成と同じであることは、すでにご承知のとおりです。
これはテレビ初公開ですが、この1%ミネラルバランス塩は、目につけると、
一時的に視力を回復させる働きがあります。
体液組成ですから、目にしみませんし、目に潤いを与えて見えるように、なるのです。
番組の参加者全員に試してもらいましたが、全員が視力検査の結果、視力がアップしていることが証明され、
「すごい!見えるんですよ」 と、驚きの声が上がりました。
講演会でも、
「あれは本当ですか? ヤラセじゃないんですか?」 と、よく質問されますが、
その場で実際に実験すると、同じように見えるようになるので、
びつくりされる方が多くいます。
目は、一点を見続けたり、モニターなどの画面が変わるのを見続けたりすると、
乾きやすくなりますし、筋肉の収縮がない状態になり、筋肉疲労を起こしてしまいます。
これがいわゆる目の疲労なのです。
つまり、ドライアイと筋肉疲労が重なると、視力低下=ものが見えにくくなります。
そこに体液と同じ状態のミネラルバランス塩水を点眼すると、目に潤いがもどり、
筋肉収縮がスムーズになって、一時的に視力が回復するというわけです。
さらに、この点眼を継続することによって、安定した視力を回復できる可能性もあります。
私自身、以前は近眼で長い間メガネの世話になっていましたが、
このミネラルバランス塩水を1日に2〜3回点眼することによって、少しずつ視力が回復し、
3年ほどたった頃にはメガネ不要となりました。
近眼とは、要するに眼球筋肉におけるミネラル不足ですから、当然の結果かもしれません。
また、「目」ということでいえば、脂肪球にもこのミネラルバランス塩水は効果があります。
年齢を重ねて涙の量が減ってくると、瞼の裏に脂肪球ができることがあります。
これはカルシウムなどのミネラルが不足し、新陳代謝が鈍くなったためです。
たいていは簡単な手術で治りますが、とくに痛みがあるわけでもなく、
何となくゴロゴロして気になるという程度なので、手術を躊躇する人も多いようです。
私の知り合いにもそういう方がいましたので、ミネラルバランス塩水の点眼をすすめました。
すると、しばらくして「脂肪球が消えた」という報告が、その方からありました。
不足していたミネラルが補給され、新陳代謝がさかんになったことで、脂肪球が少しずつ溶かされ、
自然に消滅していったわけです。
さて、そのクイズ番組では、塩に関するスクープとして、「血液がサラサラになる」ことが取り上げられました。
まず、受験者8人の血液検査が行われました。
採取された血液を位相差顕微鏡で見ると、人とも赤血球が連鎖的につながり、いわゆる血液ドロドロ状態でした。
これでは血管が詰まり、血流が阻害されるため、血の流れがストップするという指摘がありました。
そこで400CCの1%ミネラルバランス塩水を飲ませ、30分後に血液を再度採取しチェックしました。
結果は、全員、連鎖的につながっていた赤血球の一つ一つがバラバラになり、
血液の流れがスムーズになっていました。
ミネラルバランス塩水の中のカルシウムをはじめとしたミネラル類が水分とともに吸収され、
赤血球に作用して血液がサラサラになるという現象が起きたわけです。
血液には、酸素や栄養、ミネラルの運搬をはじめ、さまざまな重要な働きがありますが、
それがスムーズに行われるには、赤血球が一つ一つバラバラであることが必要です。
そうでないドロドロの血液では、健康な組織ができず、いろいろな弊害がでてきます。
例えばガン患者の血液を顕微鏡でのぞくと、
赤血球がべ夕べタと互いにくつついて身動きできない状態であったり、
きれいな円形であるはずの赤血球が活性酸素に破壊されてボロボロの状態だったりします。
また、動脈硬化も血液がドロドロ状態で起こります。
動脈は、新鮮な血液を各組織に運ぶ大切なパイプです。
子供の動脈は弾力性がありますが、年齢を重ねるとともにそれは失われ、
血管の内壁にコレステロールや中性脂肪などがたまってくると、血管が狭くなり、
次第に固くひびわれてもろくなります。これが動脈硬化です。
とくに高血圧の人は、動脈壁にかかる血液の圧力が高くなっていますから、
動脈壁がもろくなっていれば当然強い圧力に耐えきれず、血管が破れてしまいます。
それが脳の血管で起きれば脳梗塞などのたいへんな事態にもなってしまうわけです。
ミネラルバランス塩は、
含まれている有機酸やミネラルの働きによって血管壁についた酸性物質であるコレステロールや
中性脂肪を中和して洗い流してくれるのです。
しかも、番組の実験でもわかるように、ごく短い時間のうちに、それは行われます。
ですから、日常的にミネラルバランス塩を摂っていれば、
私たちは常にサラサラの血液でいられ、健康を維持できることは、明白なのです
ミネラルバランス塩は、ガン予防にも有効です。
ガン細胞は、蟻酸やシァル酸といった腐食性の酸を出しながら成長していくといわれています。
いいかえれば、ガン細胞はまわりの正常な細胞を溶かしながら、自らの縄張りを広げていくというわけです。
このガン細胞の酸を中和し、無毒化するのに有効なのが、
カルシウム、マグネシウム、ナトリウムなどのミネラルバランス塩に含まれるミネラル類なのです。
ミネラルには、もともと人体に都合の悪いものと結びつき毒性を中和して無毒化するとともに、
体の外に排出するという働きがあります。
なかでもプラスのイオンであるカルシウム、マグネシウム、ナトリウムなどは、
マイナスイオンである蟻酸やシァル酸と結合し、その酸を中和する働きがあるのです。
ここ数年、よくいわれていることに「活性酸素」があります。
すなわち、ガン、成人病(生活習慣病)、老化の原因は活性酸素にあるというものです。
これは、要するに体が錆びる=酸化すると、さまざまな障害が起こるということで、
私たち人間がかかる病気の約90%は、「酸化」によって引き起こされるともいわれています。
そもそも生命活動とは、摂取したエネルギー源を酸化させて熱に変える働きで保たれています。
ですから、酸化は必ずしも悪いことではありません。
しかし、酸素は多量に摂れば、体にとって有害な物質にもなります。
生命活動は酸化だけで成り立っているわけではなく、
いったん酸化された物質を還元する作用も同時に行われています。
このバランスが崩れるのがよくないのです。
このときの体は、ものを燃やして、その煙や燃えかすを処理できず、どんどん汚れてしまっている状態といえます。
これを解決してくれるのがプラスのミネラルイオンです。
つまり、体内の酸化を防ぎ、ガンなどさまざまな病気の予防にも、ミネラルは欠かせないのです。
ミネラルバランス塩は、骨租軽症の予防にも有効だと私は考えています。
骨は、リンやカルシウムなどの無機質と、コラーゲンのような有機質からなっていますが、
これらの物質のうちカルシウムが不足すると骨租怒症を引き起こします。
最近は、子供も大人も骨が弱くなってきているといわれますが、骨租寮症は圧倒的に女性が多く、
とくに閉経後の女性はカルシウムをたくさん摂取する必要があります。
女性は、妊娠したとき胎児に大量のカルシウムが必要となるのに備えて、
ふだんから骨にカルシウムが十分蓄えられています。
ところが、妊娠の可能性がゼロになる閉経後には、その蓄えが必要ではないと判断され、
その分、骨からのカルシウム溶出が促進されてしまうのです。
その結果、骨質が粗くなって、骨が弱くなってしまうというわけです。
3章で申し上げたように、イオン化ミネラルはカルシウムセンサーが働き、
この骨からのカルシウム溶出をコントロールしているのではないかと考えられるのです。
したがって、ミネラルバランス塩を摂ると、それによって容易にカルシウム補給ができ、
かつ骨からの大量のカルシウム流出を防ぐこともできるので、
結果として骨租寮症の予防はもちろん、改善にも役立つものと思われます。
糖尿病は生活習慣病の代表格の一つですが、その食餌療法にぜひとも取り入れたいのがミネラルバランス塩です。
ご存じのように、糖尿病とは、
膵臓のランゲルハンス島から分泌されるインシュリンの作用不足によって起こる代謝障害で、
血糖が上昇し、尿中に糖が排泄される病気です。
合併症には血管障害や神経障害、皮膚病などがあり、とくに動脈硬化や高血圧症をしばしば引き起こします。
二つのタイプがあって、一つは継続的な糖分の摂り過ぎでインシュリン生成能力が低下したために起こるもの。
もう一つは、インシュリンはつくられているのに、それを受け取る受容体に障害があって、
十分にインシュリンの作用が発揮されないタイプです。
前者は外からのインシュリン注入が必要ですが、後者の場合は治療の中心は食餌療法です。
糖分を断つ一方、塩分を十分摂って血中の塩分濃度をキープすることによって、新陳代謝機能を回復させるのです。
ですから、例えば高血圧気味だからといって塩分を控えることは、絶対にしてはいけないことなのです。
NaClの純度の高いものは控えてください。
また、糖分もその吸収にミネラルが作用しますから、豊富なミネラルを摂ることが必要なのです。
ミネラルバランス塩は、こうした食餌療法に「理想的な食塩」です。
血液のpHバランスを整え、かつ血圧をも正常化してくれます。
アトピー性皮膚炎が「海水でよくなった」とか「塩湯でよくなった」などという話をよく聞きますが、
もし、それをいうなら、私は「1%ミネラルバランス塩水」を推奨します。
イオン化したミネラルは、水とl緒に皮膚からも吸収することは前にお話ししましたが、
ためしにお風呂のお湯の中にミネラルバランス塩を入れてみてください。
ミネラル分を核とした水が体内まで浸透し皮膚に潤いを与えるばかりか、
血行がよくなり冷え性などにも効果があります。
アトピーは、皮膚が乾燥したときに痺くなり、そこをかいてしまうことで雑菌が入り、
さらに症状が進むという悪循環を繰り返すといわれていますが、
1%ミネラルバランス塩水は保湿効果が高く、これが痺みを止めるとも考えられます。
また、ふだんの食事でミネラルバランス塩を継続的に摂ることで、体の内側から多種のミネラルが補給されます。
これによって皮膚にみずみずしさが蘇り、アトピーにもめざましい効果を発揮します。
そもそもアトピー性皮膚炎は、現代人の慢性的なミネラル不足に起因するといわれます。
バランスのとれたミネラルを補うことで、著しく改善できます。
食べるための塩、調味料としての塩は、体にいいだけでなく、美味しくなければ話になりません。
ミネラルバランス塩を使っている方々の多くは、
口を揃えて「(精製塩を使っていたときょりも)料理が美味しくなった」とおっしゃいます。
精製塩、すなわち限りなく100%に近い塩化ナトリウムの塩は、ビリビリと舌を刺すしょっぱさだけで、
旨味を感じることはありません。
しかし、ミネラルバランス塩にはコクとまろみ、塩辛さの中に甘みすら感じるような複雑な味があります。
私の知り合いが、このミネラルバランス塩を老齢の母親になめさせたところ、
彼女は 「あだじょっぱくなくて、甘くて美味しい」といったそうです。
そして、以来その母親は、毎日のように大好きなトマトにミネラルバランス塩をかけて食べているそうです。
体にいい塩は、味もいい。 私は自信をもって、そういいきれます。
私たち人間を含め、生き物にとって「味」というものはとても大切なことです。
なぜなら、動物はすべて、自分の健康に都合のよいものは美味しく感じ、
都合の悪いものはまずいと感じる、そんなふうにできているからです。
さて、前述のクイズ番組には、 Q体にあった塩を選ぶには?
@成分表を見る
A触ってみる
Bなめてみる
という問題がありました。
成分表を見るのも一つの手ではありますが、答えは、まず、ひとなめしてみるのB番です。
なめると、口の中で溶けたいろいろなミネラルが、舌の昧菅細胞に入り込みます。
この味菅細胞のイオンチャンネルは7オングストロームといわれ、その径は142万分の1mmです。
すでに何度もお話ししているように、このナノメートル以下の穴をミネラルが通過するためには、
ミネラルがイオン化され、一つ一つが独立して水の中に分散されていなければなりません。
こうしたイオン化ミネラルが通過すると、その刺激が脳に伝わって「味」として感じることになります。
脳が、入ってきたミネラル質を感知すると、「うまい」「まずい」という指令が出されるわけですが、
「うまい」という指令がきたときには「食べていい塩」ということになります。
逆に「まずい」という指令がくるときは、自分の身に足りないミネラルがあると脳が反応して、
身が欲することになります。
これを自分で選ぶのが一番というわけです。
ただし、それには直感力が必要ですし、感受する能力を磨いておく必要があります。
インスタント食品に慣らされ、塩化ナトリウムの塩漬けで育った、
最近の子供たちは「本当に美味しいものを知らない」とよくいわれますが、
私にはそれがとても悲しい現実のように思われます。
現実に味覚音痴は増えているのです
ミネラルバランス塩は、食べ物の素材の味を引き出し、さらに質を高めてくれます。
安い肉をより美味しい肉に変身させるには、調理する前に1%ミネラルバランス塩水につけ込みましょう。
その前に肉に糖質類を作用させて、肉のコラーゲンや筋肉繊維をやわらかくしておけば、さらに完璧です。
私は、このミネラルバランス塩水を使った調理法=リンゲル調理法を、
世の奥様方にぜひおすすめしたいと思っています。
肉や魚介類、野菜など、あらゆる素材に適していますから、非常に利用範囲が広いのです。
1%ミネラルバランス塩水は、素材の細胞の中から水を引っ張りださない濃度で、
カルシウムをはじめとしたミネラル類が細胞内外のミネラルバランスを整えることによって、
ふくらみを増し、旨味を保持させるものです。
日本料理では、貝などに振り塩をするとき、まず皿に塩を振り、和紙をのせて軽く水を打ち、
月をのせてさらに上から和紙をかぶせ、水と塩を振るという方法がありますが、
これは脱水と成分の流出を遅らせながら、立て塩法と同じ効果をうるための古くからの手法です。
しかし、こんな面倒なことをしなくても、リンゲル調理法なら、もっと美味しく、素材がよみがえるというわけです。
例えば、ウニは、肉質の保持のため、硫酸アルミニウム (ミョウバン)が使われているため、
食べるとえぐ味と苦みを感じるものですが、1%ミネラルバランス塩水を使うと、
そのふくらみが増すのと同時に、えぐ味、苦味が消え、まろやかな風味に仕立て直されます。
冷凍食品にも1%ミネラルバランス塩水はたいへん有効です。
例えば、日本人が大好きなエビは、ほとんど海外から冷凍のカタチで輸入されていますが、
冷凍の場合、処理が適切でないと、輸送の途中で品質が低下している可能性があります。
また、養殖場から加工場に運ぶのに時間がかかると鮮度が落ち、風味は悪くなります。
さらに加工場につくと、エビは殺菌剤である次亜塩素の中に漬け込まれ、サイズ分けされた後、
また次亜塩素入りの水を入れて急速冷凍されます。
日本に着いてからはというと、もう一度サイズごとに分け直して再冷凍されるものと、
原料に使うものとに分けて加工されることになりますが、加工後に再冷凍されるものが多くあり、
当然そこでも大量の次亜塩素が使用されています。
こうした過程の中で、エビはエビ本来のプリプリとした食感が失われ、
パサついた味気のない肉質に変質してしまいます。
エビのたんばく質構造は独特で、8の字型につながっている組織です。
そのため、あのプリプリ感があるのですが、次亜塩素に漬けると、塩素がたんばく質にとりつき、
組織が酸化して萎縮してしまいます。
つまり、硬くなってしまうわけです。ですから、次亜塩素に漬ければ漬けるほどエビの風味は低下し、
殺菌、漂白作用によって、色は白っぼくなってきます。
これを元の美味しいエビにもどすには、たんばく質に結合している塩素を中和して取り除き、
酸化して萎縮してしまったタンパク質に、
水と、カルシウム、マグネシウム、ナトリウム、カリウムといったミネラルを与え、還元してあげることです。
すなわち、1%ミ、そフルバランス塩水に漬け込むことで、
エビのたんばく質は元の弾力のあるたんばく質の状態に戻り、食感と風味を蘇らせることができるというわけです。
冷凍イカなども同様です。
冷凍イカを1%ミネラルバランス塩水に漬け込むと、解凍も早く、焼いても焼き縮みせず、
丸まりもなく、すぐに火が通って、やわらかく仕上げることができます。
ミネラルバランス塩で漬け物を漬けてみてください。
漬け込む野菜等の細胞内の水分が出すぎず、ビリビリとした塩辛さもなく、パリッと美味しく漬かります。
漬け物には、塩漬け、ぬか漬け、醤油漬け、味噌漬け、糀漬けなどいろいろありますが、
やはり基本は塩です。この塩の違いで、漬け物の風味は大きく変わってくるのです。
試しに、ミネラルバランス塩と精製塩とではどれだけ昧に差があるか、テストしてみました。
[白一采の塩漬け]
白菜を縦割りにし、その半分をさらに縦割りにして、
ミネラルバランス塩と精製塩とでそれぞれ漬けてみました。
●結果/短時間でわかるよう塩分をかなり多めにしましたが、
ミネラルバランス塩のほうはビリビリした塩カドがなく、マイルドな感じ。
一方、精製塩のほうは塩カドが感じられました。
[人参の塩漬け]
人参を5CmX2CmX厚さ1Cmの大きさに切って、100gずつビーカーに入れて、水50ml
ミネラルバランス塩と精製塩、それぞれ5%を加えて漬けてみました。
●結果/ミネラルバランス塩で漬け込んだもののほうが、みずみずしく、歯触りがよいと感じられました。
このほか、ナスの塩漬け、大根の味噌漬け、松前漬け(スルメ+醤油・みりん)などもテストしましたが、
いずれも味噌、醤油、みりんの風味がよくなり、素材の風味が引き出され、美味しく漬かりました。
また、精製塩に比べて漬け込む時間が早いという結果も得られました。
岡山の漬け物メーカー「まるみや」はそれを実践してミネラルバランス漬け物を製造しています。
梅干しは、昔から保存食として日本人に親しまれてきました。
あんばいが良いとか悪いとかの「あんばい」は、本来「按配」「按排」という文字が用いられていたようですが、
いつの頃からかそれに加えて「塩梅」という字も使われるようになりました。
それほど塩と梅は嫁が深く、梅を漬けるときの塩加減は微妙にして、かつ大事ということでしょうか。
梅干しの塩分は、本来25%ぐらいがいいとされています。
これは常温でも腐らない塩分濃度で、これ以上塩を多くすると、
今度はいくら何でもしょつぱすぎるし、少なすぎれば保存食としての役を果たせない……
そのちょうどいい加減、それこそ「塩梅がいい」のが、このぐらいの塩分量ということです。
ところが最近では、あの「減塩神話」のせいで、
低塩梅干し、減塩梅干しと銘打った製品が大幅に増えてしまいました。
これらの塩分は9〜10%。防腐できるぎりぎりの塩分は18〜19%ですから、
冷蔵庫の中に入れておいてもカビが生えてしまうような、生鮮食品並の梅干しが、
やたらに多くなってしまったということです。
それでどうするかといいますと、添加物の使用です。
塩分を極度に減らした梅干しには、通常、アルコールや糖類、多量の旨味調味料など、
数多くの種類の食品添加物が使われているのです。
れでは「梅干しが体にいい」なんて安直にいうこともできません。
かといって、精製塩使用・塩分25%の梅干しも体にとってきつすぎます。
そこで、梅干し本来の味と保存食としての機能、体への良い働きを期待するなら、自宅でミ
ネラルバランス塩を使って漬けることをおすすめします。
私は、精製塩を使った梅干しとミネラルバランス塩を使った梅干しをつくつて、味を比べて見ました。
ミネラルバランス塩で仕込んだ梅は、精製塩で漬けたものに比べて梅酢の量を少なくしたにもかかわらず、
梅の香りはむしろ強く、塩辛さもマイルドです。
土用の頃、漬けた梅を干しますが、干し上げてもミネラルバランス塩を使用した梅は、
エキス分の残りが多く、しかも皮がしっとりしていて滑らかです。
同じ梅でありながら、風味ははっきりと違っています。
梅にはクエン酸、リンゴ酸、酢酸などの有機酸が約4%ほど含まれています。
ミネラルバランス塩を使うと、この酸とミネラルが結びつき、これによって塩カド″がとれ、
マイルドな味になります。
また、塩化ナトリウムだけの精製塩では、細胞の外へエキス分や水分を引っ張りだす力=浸透圧が強すぎます。
これに対してカルシウムやマグネシウム他のミネラルがバランスよく配されているミネラルバランス塩では、
浸透圧が調整され、細胞の中にほどよい水分が残るというわけです。
ちなみに、漬ける前に水道水で梅を洗うと、
次亜塩素で梅の皮がごわつき、梅自体のミネラルが半減してしまいます。
これを補い、ごわついた皮をもとの柔らかい皮にもどすのもミネラルバランス塩です。
市販されている梅干しの一部には、塩化ナトリウム=精製塩に塩化マグネシウムを混ぜただけの塩を使用して、
「自然塩を使っているから美味しい」などといったふれこみで売られているものもありますが、
これはミネラルバランス的に偏っていることにほかなりません。
梅干しに使う塩も、イオン化したミネラルがバランスよく含まれていることが最重要なのです。
ミネラルバランス塩の活躍の場は、まだまだたくさんあります。
私の知り合いの女性などは、「これを使ってから料理の脱が上がったみたいだ」と、たいへん喜んでいます。
では、そのいくつかをご紹介しましょう。
●野菜の塩もみがシャキッと
きゆうり、大根、人参、キャベツ……
野菜の塩もみの美味しさは、鮮やかな色とシャキッとした歯応えにあります。
ミネラルバランス塩を使うと、ミネラルが野菜の旨味を引き出し、シャキッと美味しく仕上がります。
●アク抜きが簡単、スピーディーに
野菜のアク抜きは、水または薄い塩水につけて行いますが、
けっこう時間がかかって忙しいときにはパスしたくなるものです。
そんなときミネラルバランス塩を使うと、野菜の浸透圧が変わり、細胞の水分の出入りが活発になるため、
アクが早く抜けます。
5〜10分漬けておけば十分なので、下ごしらえが簡単。また変色も防げ、野菜本来の風味を引き出します。
●煮くずれしない
煮物は煮くずれが気になりますが、ミネラルバランス塩を使えば、
素材の細胞中の水分を引き出しすぎないため、煮くずれを防ぐことができます。
また、塩味が早く材料に浸透するので煮あがりが早く、ミネラルの働きで風味も増します。
●炒め物がべたつかない
家庭で妙め物をすると、どうしても水っぽくなりがちです。
野菜炒めにミネラルバランス塩を使うと、野菜から水が出すぎずシャキッと妙めることができます。
パラパラご飯が命のチャーハンもうまくいきます。
●焼き魚がふっくらと
10〜15分前に魚にミネラルバランス塩をふるか、1%ミネラルバランス塩水に漬けておきます。
こうすることによって、魚の旨味はそのままに、余分な水分と生臭みだけが抜けます。
身に弾力性が増し、焼き上がりはふっくらとしていて、パサパサ感がありません。
焼きすぎても失敗しても大丈夫。その1%塩水をスプレーしてみてください。
飛びすぎた水とミネラルをもう一度、身に戻すことができる裏ワザが可能です。
もし焦げたとしてもスプレーすれば焦げの苦味をなくすこともできます。
●ブロイラーの臭みを消す
ミネラルバランス塩を使うと、ブロイラーのあの独特の臭みが消えます。
これは臭みの原因となるたんばく質の分解物に、ミネラルが結合して中和されるためです。
●ハンバーグをしっとりと焼き上げる
肉をこねるときにミネラルバランス塩を使うと、イオン化ミネラルの働きで肉の弾力性が増し、
しつとり、ふっくらしたハンバーグが焼き上がります。
ただし、ミネラルと一緒に水分が細胞内に入りやすくなるため、
いつもより水または牛乳の量は少々多めに、がコツ。
イオンの力で熱の伝導性がよくなりますから、中まで早く、しつかりと火が通ります。
●ゆで卵の黄身がきれいに
ゆでる水にミネラルバランス塩を一つまみ加えると、黄身が黒くならず、
きれいにゆでることができ、殻も楽にむけます。
これはイオン化したミネラルが、殻を通って卵の中に入り、自身を活性化させるためで、
白身自身も固くなりすぎず、美味しくゆであがります。
●麺頬はコシのあるゆで上がりで、しかものぴにくい
スパゲティやうどん、そば、ラーメンなど、麺類をゆでる際にミネラルバランス塩を使うと、
美味しくゆで上がります。浸透圧の関係で麺の中にスムーズに水分が吸収されるため弾力が増すからで、
ゆで時間も短縮できます。
また、麺の表面が滑らかになってゆで上げてしばらく置いてものびにくく、水っぽくもなりません。
●手づくりパンがふっくら、時間がたっても固くなりにくい
ミネラルバランス塩のイオン化したミネラルが、水と一緒に小麦の組織細胞の中に入り込み、
細胞内部から保水するので、澱粉の粒子が膨らみ、パンがふっくらと美味しく焼き上がります。
また、手づくりのパンは市販のもののように防腐剤などを使わないだけに、
時間がたつとパサパサしたり固くなってしまうものですが、
細胞内に入った水や組織にとり込まれた水は蒸発しにくいので、ミネラルバランス塩を使うと、
しばらくおいても美味しさは変わりません。
それでも時間がたって乾いてしまったら、1%塩水をスプレーして焼いてください。
しつとりと焼き戻りします。
●手づくりうどんもシコシコに
うどんづくりの職人さんは、粉はもちろん水にもこだわるといいますが、
家庭でつくる場合はそうもいってられません。そこで、ミネラルバランス塩が大活躍します。
小麦粉と水を合わせて練るときにミネラルバランス塩を使うと、
まず水の質がよくなり、イオン化したミネラルと一緒に粉の細胞内部に浸透し、保水力が高まります。
そのため、シコシコしたコシのある美味しいうどんが打ち上がります。
●青臭い野菜ジュースやトマトジュースが飲みやすく
野菜ジュースにミネラルバランス塩を少量入れると、青臭さが抜け、酸味もマイルドになって、
飲みやすくなります。
また市販の無塩トマトジュースにミネラルバランス塩を入れると、美味しさが増します。
●塩辛いものがマイルドに
一見矛盾しているようにも思えますが、塩辛くしつこい味の煮物や汁物に、
一つまみのミネラルバランス塩を加えると、塩辛さが薄れて、まろみがでてきます。
これは多種のミネラルの旨味で、舌を刺すような塩化ナトリウムの刺激が抑えられ、
マイルドな味に変化するためです。
●まろやかさに欠ける酢を美味しく
美味しい酢は、アミノ酸やミネラルが多く含まれているので、ツンと鼻をつく刺激がなく、
味もまろやかで、水っぽくありません。
まろやかさに欠ける酢をそんな美味しい酢に変身させるには、
ミネラルバランス塩を加えることです。酢に不足しているミネラルが補われ、風味を増します。
その他どんな料理にも、このミネラルバランス塩を試してみてください。
素材本来の味が引き出され、料理が格段に美味しくなるはずです。
見
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戦前と戦後で品質が最も変わった食べ物は塩
戦前の塩はニガリが多すぎて腎臓を傷め、老化を促進したので、日本人の死亡原因の第一位は、腎臓病でした。腎臓が悪い者は、総論賛成各論反対など正邪善悪が分からない。自分のことだげを考える。いじめたり、いじめられる子供は腎臓が悪いのです。脳の血管も害を受け模倣は上手でも創意工夫力がなく、主君へ忠義、親分への仁義など事の善悪にかかわらずその命に従う意地の強い気性になりました。しかし、ニガリに含まれるミネラルの働きで小児マヒやガンは少なかったのです。その後、遠心分離機が導入され、Naclを95%ぐらいにして、上質塩は臥(かます)に入れなくてもよくなりました。敗戦までは日本人は早熟早老で女性は15〜18才で結婚し、男でも身の丈五尺(1.5m)人生五〇年でした。六〇才にもなれば腰は大きく曲がり、七〇才で「人生七〇古来稀なり」でした。戦後の日本の発展は、入浜式をそのまま転用した昭和28〜46年までの、「流下式枝條架併用塩田」が普及して労働力が、6〜10分の一になり、ニガリを減らした「並塩」は世界の製塩史上最高の「食用最適塩」でした。この塩を食べるようになってから日本の戦後復興に弾みがっきました。脳力(能力)が向上し、身長六尺(1.8m)、人生八○年、今では腰の曲がった老人など見かけません、この原動力はニガリの少ない塩です。
世界的な長寿国はすべて海岸から離れた山の中で岩塩を食べています。ニガリのない岩塩を食べる民族(アソグロサクソソ、ゲルマソ、スラブ、アフリカ中央部の部族など)は身長が高く、ニガリのある海の塩を食べる民族(東南アジア、日本、ラテン諸国など)は小柄で比較的短命です。日本人もニガリを減らした流下式並塩を食べ出した昭和28年以降に背丈も寿命も知力も経済も伸び始めましたが、昭和46年以降のイオン塩・純塩化ナトリウムになってから、免疫力と体力はなくなり脳が変質して倫理観がなくなり、汚職事件や猟奇事件が多くなりました。塩の質の違いが現れています。「海水の成分に近い、ニガリたっぷり」を安心・安全・おいしいと言うときは、昔のような身長五尺、人生50年と抱き合わせであることを承知した上で言いましょう。早く死んで老人医療費を軽くするのに貢献するとしましょうか。
今、ほとんどの食塩は化学工業的製法で作られています。しかし、純粋に海の水を蒸発させて作る本当の「自然海塩」もあるのです。自然の豊かな海岸に広がる「塩田」(粘土質の浅い池)に海水が導かれます。そして風と太陽が、その塩水を乾かします。すると、生き生きした塩水の池から、白く輝く結晶が現われるのです。塩作りの職人によってそれが集められます。この塩の味こそ、私たちが本能的に求めるものです。私たちの体には、この地球上でもっとも複雑多種なミネラル(無機質)が必要です。人間の内部の海、つまり体液を完全に復活させる力を持つのは、海洋の塩だけです。苦労をおしまずに、注意深く取り出した自然海塩は、最上の味わいがあります。それは生理学的にみて、必須のミネラル混合物です。これに比べて普通の食卓塩はみんな、人工的で、悲しむべきものにすぎません。海の水には、92種類もの豊富なミネラルが含まれています。しかし工業的に精製された塩には、ほとんど2種類しか残されていない。精製食卓塩は、むしろ「低品質」の塩なのです。それに対して、本当の自然海塩は良質で、生命に欠かせないものです。生物学や医療の研究機関は、食物中の多量ミネラルや徴量ミネラルに注目しています。自然海塩にはそれらがすべて含まれています。それは人間にとって、健康か病気か、生か死か、を左右するカギなのです。これから、自然海塩のミネラルが私たちの心身の機能を助け、正常に保つことを明らかにします。
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- 訳註)多量ミネラルは、人体に比較的多量に必要なミネラル。
カルシウム、リン、マグネシウム、ナトリウム、カリウム、塩素、イオウなど。
徴量ミネラルとは、その他の鉄、銅、コバルト、ヨウ素など多数。徴量ミネラルは、微量元素と表現されることもある
最近は砂糖も塩も、健康の敵として嫌われています。しかし、砂糖はなくても生きていけますが、塩はそういうわけにはいきません。江戸時代の飢饉のときに、塩があればまだ助かったというエピソードがあります。だいたい、私たちの体そのものが、塩漬けのようなものなのです。そこから塩を抜いてしまえぱ、生きていけないのは当然のことです。私たちの体に塩分が必要なのは、また血液をなめてみてしよっばいことでもわかります。体液そのものが塩水でできているのです。そしてその成分は、太古からの海水組成に非常に類似しているというのはよく知られています。また、体液だけではありません。人間の体には約85グラムの塩が含まれているといわれますが、そのうちの半分は骨に含まれているのです。動物の血液は母なる海の水からできあがったごとく、よく以ています。地球上の生命はまず海に誕生したといわれますが、そのときの単細胞のような原始的な生物の内容物はほとんどが海水でした。やがて進化を統けた原始生物たちのなかには、陸に上がることを選ぶ種も出てきました。その種は、陸ヘ上ががるときにも体内の海水のような成分をもってきたというわけです。以来、何十億年もの年月を経て人類が誕生し、今日にいたるわけですが、依然として陸上の生物にとつてはこの海水の成分がが欠かせない重要な要素となっています。このとても長い生命の歴史にそむいて、塩をとらずに生きることなど私たちにできるわけがかないのです。これをよく表しているのが、リンゲル液という医薬品でしょう。塩は点滴に使われるリンゲル液の原料にもなります。リンゲル液は代用血液、生理食塩水などとも呼ぱれるもので、1リットルに塩化ナトリウム0.86グラム、塩化カリウム0.30グラム、塩化カルシウム0.33グラムが含まれています。水分の補給には、この液体がいちばん良いのです。また、出血多量で輸血がか必要なとき、体内の毒素を薄めて排泄させたいとき、重病で食事がができないときなど、この液体はなくてはならないものなのです。では、このナトリウムは、体内でどういうはたらきをしているのでしょうか。塩は、体内でナトリウムイオンに分解されて、いわば情報メディアのようなはたらきをしています。たとえば頭で考えたことを筋肉に伝えるとき、その情報を運んでくれるのがナトリウムイオンということです。筋肉が動くメカニズムでも、重要な役割を果たしています。また、唾液、胃液、腸液などの消化液は、1日に約8リットルも分泌されていますが、これにも塩分がが必要です。血液を浄化して、その大切な部分は再吸収するという腎臓のはたらきも、ナトリウムなどのイオンが活躍します。あるいは、糖分やタンパク質を腸から吸収するときにも、ナトリウムはなくてはならない成分です。
有害食品の砂糖が有用食品の塩のうえにのさばっていることは、主審転倒の典型的なものである。昔の菓子は木の実や果物(水菓子・水菓子)だったが、現在は砂糖菓子が主体になっている。塩と砂糖の昔と今の逆転コントラストは、人間の健康という面から深く考えねばならない問題になってきた。おいしいものを、甘い(うまい)といい、いい塩加減だというが、うまい(あまい)という言葉は砂糖の甘さからきたものではなく、自然の食べ物のもつ甘さからきたものだろう。塩も砂糖も白色ではあるが味は天地の差である。砂糖と間違えて塩をなめてしまった子供時代のほろ苦い塩からい経験が思いだされる。塩の味『鹸』も砂精の味の『甘』も漢音では何れもカンであることは面白い。ところが食養法では生理的、医学的に塩は陽、砂糖は、陰でまったく相反する性質を持っている。一方では、塩も砂糖も細菌の発生を防止する効果がある点は、共通している。漢方医学では、甘味と鹸味との薬効について深い意味をもたせている。食塩は一般に海水から物理的に、砂糖は陸の植物から化学的にとっているのも妙な対照だといえる。しかも双方とも水分を蒸発させて造る点は共通している。しかし砂糖は暑い地方の植物に多いが、塩は何処の海でもほぼ等しく含まれているのも妙な対照である。額に汗して働く者は塩分を多くとり、肉体をほとんど使わない贅沢階級が砂糖を多食するという傾向があり、酒好きに塩カラ党がつきものだ。下戸に甘党が多いのも、生理的欲求と経済的事情が絡みあった結果によるコントラストだろう。人工的な砂糖の甘さではない天然の甘さと、塩気との調和こそ、真の料理の長所でありコツでもある。