夕張の石炭の上に乗った「大夕張のキリ助」 |
1916年〜2005年。長崎市万才町生まれ。1940年、京大医学部卒業。
長崎医大病院放射線科に入局。結核専門の高原病院へ移籍。長崎に原爆か投下された1945年には、神学校から派生した「大東亜布教財団 浦上第一病院」医長。
'52年に聖フランシスコ病院医長、'86年顧問。爆心地から1.4kmで被爆、医師として被爆者の治療に当る一方、永年に渡り被爆者の証言の収集を行った。吉川英治文化賞、ローマ法王庁の聖シルベステル勲章、他。著書に長崎原爆記、死の同心円。
---死の同心円 長崎被爆医師の記録 秋月辰一郎著 昭和47年発刊 講談社---
死の同心円 長崎被爆医師の記録 秋月辰一郎著より抜粋
「死の同心円だ・・・・・・・。魔の同心円だ」長崎市の地図を頭に描きながら、私は思わずそうつぶやかずにはいられなかった。まさに死の同心円が毎日少しずつ広がってゆく。きょうはあの線までの人が死んだ。翌日はその家より百メートル上の人が死ぬだろうと思っていると、はたして的中する。爆心地から広がりはじめた魔の波紋は、日一日と軽傷や無傷の人までを蝕んでいったのである。「病院まではまだ距離があるが・・・・・」しだいに広がる円周に恐れ慄き(おののき)ながら、私は毎日のように近くの人々を集めて髪の毛をひっぱった。「どうだ、まだ髪の毛は抜けないか」婦長も看護婦も患者も、首を振って不安とも安心ともつかない表情を見せた。当時私たちはみな、多かれ少なかれ悪心があった。疲労感が強く、下痢便をした。しかし、病院の人々は、お互いにそれをかくしていた。石川神父はもちろん、岩永修道士、野口神学生、白浜、松田、植木の諸君も、私も、河野君も、みなそうであった。婦長も村井看護婦もそうだった。私はそれを知っていた。だからみんなの髪を引っぱってみては、「まだ大丈夫だ」と一安心するのである。しかし、氏の同心円は丘の下から病院の方に向かってじょじょではあるが、確実にのぼってくる。(略)九月上旬から中旬にかけて、死はいよいよ病院に向かって、津波が押し寄せるようにあがってきた。「あしたは自分が死ぬかもしれない」という不安が私たちの胸をしめつけた。職員はお互いに下痢便、歯ぐきからの出血をまだ秘密にしている。病院で被爆し、病院付近で労働をつづけてきた肉体が、どれだけ放射能によって侵されているか見当もつかない。八月も二十五日をすぎたころから、焼けただれて残った木の葉が、夕陽や朝の雲に硫酸銅のような異常な濃緑に映えて見えた。気味の悪い緑だった。しかし、このことは私以外に記憶がない。そして、いよいよ病院も死の同心円に包まれる時期にさしかかった。往診に行ったり、その辺を歩きまわったりすると、被爆直後とはちがう激しい疲労をおぼえ、悪心と下痢に悩まされた。「えらく疲れるな」私はいうと、野口神学生も蒼い顔でうなずいた。死の灰の恐怖は、これまで奮闘してきた病院の職員たちにも遠慮なく襲いかかってきたのである。軽重の差こそあれ、全員が悪心と血便と、耐えがたい疲労感に喘ぎはじめた。
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その1)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その2)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その3)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その4)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その5)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その6)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その7)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その8)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その9)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その10)
被爆の記録『死の同心円 長崎被爆医師の記録』(その11)
P130からP173までを一部抜粋
四章 しのびよる悪魔の手
■ふしぎなアルコール療法
被爆以来、全身火傷やガラス創などの治療に専念してきた私は、八月十三日ごろから新しい疾病に直面した。あとになって、原爆症と呼ばれるものである。 それは十六日をすぎると、にわかに数を増し、数日中に症状が悪化して、バタバタ死んでゆく。患者の年齢や抵抗力の強弱によって、死までの時間に多少のズレがあるが、ハッキリいえることは、爆心地からの距離に比例して照射量に大小があり、それが激症、中等度症、弱症の区別をつけていることであった。つまり、木尾町、橋口町、浦上天主堂付近、上野町の人々は激症で、本原町一丁目付近がそれにつぎ、爆心地からの同心円の直径が伸びるにしたがって、弱症になっていくことがわかった。 弱症の人たちは、一週問ほどのあいだに、じょじょに症状があらわれて死んだ。 血球計算器もなく、血球を染色して顕微鏡で見る装置もない。リンゲル注射も、輸血療法もできない。 私は想像と推理によってこれを「レントゲン・カーター」に似たものと断定し、私がそれに苦しめられたとき、よく食塩水を飲んだことを思い出した。レントゲン・カーターの患者に、生理的食塩水より少し多く塩分を含んだ水を飲ませることは、レントゲン教室で働いている者の常識であった。 私には原子生物学の知識はなかったが、「爆弾をうけた人には塩がいい。玄米飯にうんと塩をつけてにぎるんだ。塩からい味噌汁をつくって毎日食べさせろ。そして、甘いものを避けろ。砂糖は絶対にいかんぞ」と主張し、職員に命じて強引に実行させた。 それは、私か信奉しているミネラル栄養論とも一致する考え方であった。私は石塚左玄氏の桜沢式食養学を学び、自分なりに工夫して食養医学をつくり、みずから秋月式栄養論と名づけた。 この考え方に立てば、食塩のナトリウムイオンは造血細胞に賦活力を与えるが、砂糖は造血細胞に対する毒素である。同じ野菜でも、カボチャはいいが、ナスはよくないということになる。 浦上第一病院の患者と職員に、こうして私のミネラル栄養論を実践したが、ついでに死の灰がいっぱい付着したカボチャもずいぶん食べさせてしまった。せっせと味噌汁に入れて食べたので、二次放射能で腸をやられたかもしれない。もっとも、味噌の解毒作用によって、プラスマイナス・ゼロになったと考えられる。原野と化した病院の庭で、ナスはふしぎなほどよくとれた。昔からナスの花にむだはないというが、それにしても被爆後のナスの実りは異常たった。八月末から十月にかけて、例年にない収穫があり、私たちはそれを味噌漬にして毎日食べた。 虚弱体質の私が、千四百メートルの距離で被爆しながら原爆症にならず、病院の職員や患者全員がレントゲン・カーターに似た自覚症状を感じながら、なんとかそれを克服し、働き続けることができたのは、私はやはり食塩のおかげであり、秋月式栄養論の成果であったと思う。私の周囲にいた人々は、みなそれを信じている。たとえ学会には認められない説であっても……。原子病の治療について、私のミネラル栄養論のほかに、永井先生の「ビタミンB1・ブドウ糖療法」、長崎医大影浦教授の「柿の葉煎汁によるビタミンC大量投与法」などがあるが、なかでもおもしろいのは「アルコール治療法」である。『長崎精機原子爆弾記』には、つぎのような福田所長の体験記が収められている。反(そり)工師は爆心地から千五百メートルの距離で、防空壕の下検分をやっているとき、露天で被爆して負傷した。彼はその日の夕方、田中工務課長のいるところにたどりついたが、焼けただれて、課長はすぐには反工師とはわからなかったという。「君はだれかね」「反です。田中さん、やられましたよ。どうせ長いことはない。どうせ死ぬなら、一杯やりたいもんだ。酒はありませんか」
「酒はないが、アルコールならある」 反工師は、火傷をしているのに、チビリチビリとアルコールをうすめて飲みはじめた。身体が燃えるように熱く感じて、工場の外の川に身を浸して、飲みつづけた。 彼はその後元気になったが、同じ場所で同じように被爆した三人は、一週間以内に死んでいる。これで、原爆には酒がいいという話が広まった。 『炎の中に』の著者である田川衛生兵長は、千四百メートルのところで被爆したが、その日の午後、長崎駅から大波止のほうへ歩いてゆくと、五島町に長崎随一の酒屋があり、酒倉に人々が群らがって、フラフラになるほど酒を飲んでいるのか見かけた。 田川さんも、水がわりに飯ごうになみなみと注いで大酒を飲み、疲れと酔いで、そのまま寝てしまい、やっと日が暮れてから大浦に帰りついた。人々は泥と血にまみれ、足もとがおぼつかない田川さんを見て瀕死の重傷と思ったが、ふしぎなことにすっかり元気になっている。とうとう急性あるいは、亜急性の放射能症は出なかったのである。長崎医大病院で被爆した調(しらべ)教授(現・長崎大名誉教授)は、爆心地からわずか六百メートルの病院内で被爆し、永井隆先生や角尾学長の手当てに奔走し、大ぜいの負傷者を治療したが、八月末ごろから身体に異常を感じ、九月にはいって、亜急性放射能症が悪化した。先生自身、死を覚悟していたが、たまたま九月二十日ごろ、医専の三年生かやってきて、先生のところに泊まった。 白血球二千で疲労感激しく、溢血斑が無数にあらわれていたので、学生に夜通し話をしかけられて、ほとほと困ったらしい。早く寝てくれないかと思っていると、学生は土間にあったアルコール瓶を見つけ、糖液でうすめて飲みはじめた。「先生もいかがですか」「そんなものを飲んで、死んでも知らないよ」「大丈夫です。メチルでなく、エチルですから……。さ、どうぞ」 すすめられるままに飲むと、急に身体か温まり、いくらしゃべっても疲れを感じなくなった。学生が帰ってからも、先生は朝夕、薬がわりにアルコールを飲んだ。すると、ぐんぐん力がついて一時は危篤といわれたのに、間もなく起き上れるようになった。アルコールが効いたとしか考えられないのである。 こういう例はいたるところにあったらしい。何が効くかわからない。人間の腸粘膜の細胞は、ふしぎなものである。