「正食と人体」第四章 一倉定著 

塩こそは生命のもとぞ その昔 生命海から生まれたり

人々は塩のことをよく知らない

全能の神の賜いし塩の持つ
         生命を守る六大機能

 今回は、これまでご紹介した実例を裏付ける理論論篇です。一倉先生がご自分で観察し、考察し、空想し、そして検証して構築した理論です。なぜ塩が体にいいのか、その原理を解
明します。一倉経営研究所所長 一倉 定
病気は神の下した罰である
 正食の勉強をしているうちに、人体の持つ精妙無比の生命維持機構や、
驚異的な生命力−自然治癒力の偉大さを知り、そこに、嫌でも神″の存在を思い知らされるのである。
 神は、これほどまでに生物の生命維持に万全を期しておられるのに、
その神の叡智を惑謝するどころかおごりきった人間はそれに気付かず、
万物の霊長などと思い込んで平気で神のご意志に逆らい、神の怒りに触れて罰を受けている。
それが病気である。病気を、神の罰と気付かずに、浅知恵を振るって治そうとする。
治るはずがないのだ。病気を治したければ、
病気になりたくなければ、神に感謝し、神のご意志に従うことである。
 寛大な神は、神のご意志に従う心さえ持てば、かなりのわがままを許してくださる。
そして健康な体を持つことができるのである。
そのためには、神の叡智を知るところから始めなければならない。
神の叡智は、精妙無比な生理に現れている。その生理を知り、わずかでもいいからそれに従うことである。
 
では、その生理とはどんなものであり、「ほんのわずか」とはどんなことなのかを考えてみよう。
 それは、筆者が現代栄養学に従って、自らの体をメナャメナャにしてしまったのを、
ほんのわずか改めただけで健康を回復した体験の中に、すべてではないが、あることは誤りないことである。
 そこで、私が知り得た、ほんのわずかな人間の生理をご紹介しながら、筆を進めることとさせていただく。
 こうしたときに必要なのは「理論」である。
いろいろ探してみたが見当たらない。仕方がないので自分で作ることにした。
 そのときに私を力付けてくれたのは、アレキンス・カレル
(元ロックフェラー医学研究所員、ノーベル生理医学賞受賞者、故人)の
『人間 この未知なるも』という著書の一節である。
それは、 
 人間についてのすべての科学の克明な研究の結果、すなわち科学の集めた観察と経験の宝だけが残る。
 この中から人間のもっとも基本的な活動についての、はっきりした物を見つけるには、
 人間の歴史をよく見ればよいのである。
 確かに人間の知識を堅実なものにするには、この実地概念だけである。
 しかしまた将来の計画を生みだす推測やを我々に与えるモノは、創造的空間のみである。
実地概念∞創造的空想=@これだったのである。これをやってみよう。
創造的かどうか筆者にはわからないが、そうであることを願っての理論付けである。
あとは検証で確かめればよい、と。こうして作ったのが一倉仮説″である。
これを必要に応じて使いながら筆を進めることとする。まずは、
一倉仮説(一)
 人体は、健康に関する情報(症状)を絶えず意識に送り続ける
ということである。
 頭が痛い、疲れた、食欲がない、というようなことである。
このような情報を正しく読み取って正しい対応をすれば体調は整い、病気にならずに済む。
 しかし、多くの人々は、その症状の意味を読み取ることができずにいる。
本誌十二月号、一月号に載せた多くの症状の意味を理解できずに苦しんでいるではないか。
 筆者は幸いいなことに石塚・桜沢l理論≠勉強していたために、
それらの症状ははすべて塩不足だということを知っているので、
卵醤だけで簡単に治すことができたのである。
 これらの症状は、実は氷山の一角≠ノしかすぎない。
塩不足の症状は、まだまだ数百あるだけでなく、
最近数年の新たな病気(実は症状だが のほとんどすべては塩不足のためといえる。
「塩とるな」というキャンペーンのためである。
 塩というのは、重要というよりは、人間の生理のすべて
文字通りすべてに対して決ってい的な役測を果たしているのである。
 つまり、塩は生命の源なのである。

 塩に対する正しい認識があってこそ、
正食の甚本である石塚・桜沢理論≠本当の意味で理解できるのである。

そして、その理論の実践こそ、われわれに先の健康をもたらすものである。
現代栄養学の誤り
 現代栄養学は、カロリー栄養学≠ナある。
 そして、カロリー
(最近はエネルギーと称するようになったが、まだなじみが薄いので、筆者はカロリーで通すこととする)
のある有機栄養素(タンパク質、脂肪、含水炭素、ビタミン)にのみ関心を示して、
カロリーのない無機栄養素にあまり関心を示さない。
 ここに、現代栄養学の決定的な誤りがある。
 有機栄養素というのは、燃えてカロリーを発生する。
自動車に例えればガソリンである。
このガソリンを効率よく燃焼させたり、発生したエネルギーをムダなく利用したり、
スピードを加減したり、曲がる、バックする、止める、というような機能をコントロールしたりする必要がある。
 これらのコントロール機能を果たすためには、その機構が燃えないものでなければならないことはいうまでもない。
 人体では、この機能を果たすものが無機栄養素である。無機栄養素は燃えない。
 現代栄養学は、どうしたわけか、カロリーを発生する有機栄養素のみに関心を集めたカロリー栄養学″であって、
生理機能をコントロールする無機栄養素を軽視し、ミネラル″と称して十把一からげのような扱いしかしない。
 そのために、
無機栄養素を多く含む貴重な
皮、骨、内臓、根、葉、液汁などを、精製したり調理したりする段階で大部分取り去ってしまうために、
食べる段階では大欠陥食となってしまっているのである。
有機質だけは十分にあるが、さまぎまな有用無機質が欠落しているのだ。
 このために、肝心な体調のコントロールがうまくできず、さまぎまな体調不良が発生している。
これが高じて病気になるのである。
 だから、現代文明人のとっている食物は、造病食″である。
現代でも、誤った文明に毒されていない辺境の人々には文明病などなく、
健康な生涯を送り、天寿を全うしているではないか。
 だから、健康を手に入れたければ、有機栄養素と無機栄養素を統合した総合栄養学≠ノ、
太陽と大気(神の造り賜うた清浄な空気)と、さらに精神的要素を加えた総合健康学≠持つことであろう。
 この論文では、そのうちの総合栄養学≠ノ焦点を合わせることとする。
とはいっても、有機栄養学は筆者が云々する必要がないので、
無機栄養学との接点のみにとどめ、無機栄養学を主とする。
塩の持つ生命維持の六大機能
 無機栄養学を理解するためには、その中核的な位置を占める塩の生理的機能を知っておく必要がある。
それほど塩は重要な役割を背負っているのである。
 にもかかわらず、これほどその機能を知られていない物質も珍しいのではないか。
私もその一人であった。
 石塚左玄の『化学的食養長寿論』で初めてナトリウムの重要さを知り、開眼しかかったが、
それ以外には塩の機能に触れたものはほとんど見当たらなかった。
たまにあっても、それは塩の効用についてのもので、機能といえるようなものではなかった。
 これは、私が経営コンサルタントの道を切り開くときにもそうであった。
肝心なことはだれも教えてくれなかったのである。
「何クソツ」とばかりに、一人で取り組んだのだが、塩の場合も一人で取り組むより他になかったのである。
武器は観察と考察、空想、そして検証である。
 カレルでさえ「人間、この未知なるもの」といっているのに、
おこがましくもこれに取り組んだのである。
 これは、いまでも続いている。
 そして、何とかまとめてみたのが左記のようなものである。

 塩の六大生命維持機能 −まだまだあるはずである−
一、新陳代謝の基本機能を受け持つ(一倉仮説)
二、筋肉を動かす(一倉仮説)
三、熟を発生させる(石塚理論)
四、体内電流の導電機能(一倉仮説)を持つ
五、体内の有害物質の解毒(一倉仮説)
六、ナトリウムは原子転換により人体に必要な元素を作り出す(ルイ・ケルブラン)
 というものである。
 貧弱な頭脳でまとめられるのは、右のようなものくらいにしかすぎない。
ご叱正を頂きたいのである。
 何といっても、われわれの健康≠ノ大きな影響を与える理論だけに、間違ってはならないのだ。
 右の六つの機能のうち、原子転換を除いては一倉式検証を行っているので、大きな誤りはないと思う。
原子転換については、私は検証の手段を持っていないのだ。
しかし、ケルブランの著書の中にはある。
 右の六つについて、私の検証を交えながら補足説明を行っていくこととする。
 人間の生理はこういうようになっている。
そして塩はその生理の中でこういう役割を持っている。
だから、塩はこのようにとらなければならない、という認識を持たなければならない。
そうでないと、多くの妄説に戒心わされて塩をとらず健康を害するのである。
新陳代謝の基本機能を受け持つ
 正食と血液は、切っても切れない関係にある。
食物は血液に変わり、血液が生命維持のあらゆる機能を直接・間接に行っているからである。
 したがって、血液の研究は医学、栄養学には絶対に必要なものであることはいうまでもない。
 しかし、血液理論ほど混乱している理論は、ほかにあまり例を見ないものであろう。
 「栄養物は、血液によって全身に運ばれる」というのが定説であるが、
血液の組成のと二ろを見ると
「血液は亦血球、白血球、血しょう板、血しょうの四つから成り、赤血球は酸素のみを運び、
しかも老いさらばえた細胞である。白血球は有害菌の防衛軍、血しょう板は止血作用、
血しょうは若干の酸素と微量ミネラルなどを含んだ液」ということで、
栄養素はどこかへ消えてしまっている。
血液の中には栄養素がないのなら、栄養素は何でどうやって全身に供給されるのか。
こんな矛盾が正されていないのだ。
 また、一ミリ立方に五百万もある赤血球が老いさらばえた細胞とは、とんでもない誤りである。
神がこんな不手際をするはずは絶対にないからだ。
 千島博士は「赤血球は体のあらゆる細胞に分化する」という説を唱えている。
筆者もこれが正しいと思うのだが、医学界からは無視されている。
それならば毎日二千憶個の赤血球の行方不明は何と説明するのか。
このことは完全に無視されている。
 「血液は骨髄で作られる」という骨髄造血説が定説で
造血は主として手足の骨髄で行われるというが、手や足のない人に貧血現象はない。
この矛盾をどうしてくれるのだろうか。
 千島博士や東洋医学では「腸造血説」である。
 精妙無比、一点のムダもない人体が、腸で吸収された食物を、
わぎわぎ遠い手足の骨髄で造血するようなムダを行うというのは明らかにおかしい。
それに、腸から骨髄に消化済みの食物を運ぶ器官はないし、骨髄の中にあるのは脂肪で、
造血器官と思われるものは存在しない。
 もしも、血管によって運ばれるのなら、食事後の血液の組成は変わるはずだが、
血液の組成は、いつも基本的には変わらない。
 骨髄造血説は、どんなところから出たのかというと、ある学者が鶏を強制絶食をさせて、
絶食中の鶏の骨髄中に血液が見られたというところからてある。
 千島博士は、この結論は間違っているという。
絶食中は逆分化″が起こる。分化というのは、血液が組織体に変わることをいい、
逆分化とは、絶食や大量出血という非常事態が起こって、血液の補給に支障を来したときに、
組織体の一部が血液に変わって、その不足を補うという生命維持のための非常手段のことをいう。
それは、まず脂肪や腫瘍などの不良タンパクから起こるというのである。
 絶食中の鶏の骨髄内の脂肪が逆分化しているときの血液を、造血と間違えたというのである。
 右のような誤りや明らかな思い違いと思われる理論は、
医学解説書には筆者のような素人でもいくらでも発見できる。
医学理論は混乱に混乱を重ねている。どれが本当なのかわからないのだ。
そして、かなり多くの医学解説書を読んだのだが、
新陳代謝に関する説はアイマイなもの以外ついに発見できずにいる私である。
 これでは正食の研究に大支障を米すので、
カレルのいう創造的空想によって、「一倉仮説」を作る羽目に追いやられたのである。
 これが創造的かどうかはわからないが、この仮説は多くの検証でいまのところ矛盾はないのである。
新陳代謝のメカニズム
 新陳代謝とは、生物体に見られる物質交換″のことである。
「必要なものを取り入れ、不要なものを体外に出す」という生命維持の基本機能のことだ。
 これには二種類ある。
第一は食物で消化器⇒循環器⇒泌尿器で行われ、
もう一つは酸素で肺腋で行われる。
 まず食物であるが、これは五段階ある。
一、消化 食物を体内に吸収できる状態に変える。
二、吸収 消化された食物を体内に取り入れ、造血(腸で行われる)して血管に送り込む。
三、新陳 栄養物を細胞内に供給する。
四、代謝 老廃物を細胞から取り去る。
五、排泄 不要物を体外に出す。
右の五段階のうち、一般には消化のみにしか関心を示さない。
消化さえできれば、あとは万事オーケーといわんばかりである。
 最も大切なのは、新陳と代謝なのにである。
新陳代謝の一倉仮説は、細胞レベルのものであり白菜の漬物≠フ理論と本質的に同じである。
 白菜に塩を振り掛けて重しをする。これである。
白菜は水分とカリウムとマグネシウムが大部分である。
これに塩を触り掛けると、塩の浸透圧で塩が中に入り、脱水力で水分を抜き取る。
重しは脱水を早めるためである。
これと人体の新陳代謝はまったく同じ原理による。
 この理論のキッカケはナトリウム・ポンプ″の理論にぶつかったためである。
 細胞は、一つひとつ半透過性の細胞膜に包まれた組織で、
内部にはカリウムやマグネシウムを含んだ内液があり、これが細胞外液の中に浮いたようになっている。
外液の成分は血液やリンパ液で、リンパ液は血液と相互転換できる物質だから、
当然ナトリウムやカルシウムを含んでいる。
この細胞の中に、神経の命令によって外液を内液の中に入れると筋肉が縮小し、
内液を外液の中に出せば筋肉が緩む。
こうして筋肉を動かすことによって動物は動くことができる。この作用を「ナトリウム・ポンプ」というのだ。
 筆者は、これを読んで「はっ」と出心った。
これこそ新陳代謝のメカニズムではないか。
この説は筋肉のみに気をとられて新陳代謝のほうには気がつかないのではないか、と。
 細胞が接触しているのは外液だけだから、ここ以外に新陳代謝の場所はない。
 千島理論によれば、「赤血球はすべての細胞に分化する」のだし、
外液の、外液の主老成分はリンパ液であり、リンパ液は血液の転換したものだから、栄養分も塩分もある。
 リンパ液は、塩分の浸透力で細胞の半透過膜を通って細胞内に入る。
これが新陳である。
 また、塩分の脱水力で細胞から老廃物を含んだ液を引き出す。
これが代謝。この老廃物含んだリンパ液は、血液に転換して腎臓に行き、ここから体外に排出される。
これが筆名の考えてた新陳代謝のメカニズムである。
この作用を白菜の漬物に例えれば、白菜はカリウムをタップリと含んでいるので人体の細胞に当たり 
塩は塩を含んだリンパ液に当たる。
塩はその浸透圧で白菜の中に人り、白菜の水分は塩の脱水力によって外に染み出る。
 人体の細胞も白菜も、どちらも塩とカリウムの物質交換が行われるのである。
 人間の細胞も白菜も塩もすべて自然物であり、自然の法則に基づくまったく同じ物質交換がわれるのである。
塩不足は全身病を引き起こす
 新陳代謝の仮説は、筆名の正食研究≠ノ大きな光明を与えてくれた。
というのは、いままでどうしてもわからなかった数多くの疑問に解答を得られたからである。
 「塩は新陳代謝の基本機能を果たすからこそ、
塩不足は新陳代謝障害を起こし、全身のすべての細胞に栄養失調を起こす。
そのために全身の生理機能が低下する、という事態が起こる。
そして、人体の最も弱い部分に病気とか症状とかになって現れる」ということである。
したがって、対処療法というのは間違っている。
そこだけが悪いわけではないからだ。
 論より証拠、先に紹介させていただいた実例は、症状はさまざまでありながら、
すべて塩≠セけで治つているのは、塩不足による全身衰弱が原因だからである。
この実例が、同時にこの仮説の検証ともなっているからである。
 ここに、また一倉仮説が生まれた。
それは、
塩不足は新陳代謝障害を起こし、全身の細胞が衰弱し、全身的生理機能障害を起こす。(一倉仮説)
 というものである。
 これは、「われわれの健康維持に必要な第一要件は、塩を十分にとる」ことである、
ということを意味している。
そして、自然治癒力がある限り、その防衛機能により、
塩分とり過ぎは起こらないから安心して塩分を十分にとることである。
 こにも、筆者は「神」の存在をヒシヒシと感じ、「神」に感謝をささげるのである。